4 撰者以外の撰者
新古今和歌集の撰者5人以外に歌を切入、切出したのは勅命した後鳥羽院ではあるが、他にも意見を言える者はいるだろうか。
実は一人だけいる。藤原良経摂政太政大臣である。良経は後鳥羽院より11歳年上で、建久七年の政変で蟄居させられていた所を許され、土御門院の摂政に任じられ、藤氏長者の内覧を取り戻した。良経は叔父の慈円から和歌を習った為、慈円の歌は熟知している。
実際、明月記によれば、元久二年三月二十四日に九条流の祖の天徳(九条)入道右大臣藤原師輔の歌が撰歌されていないのは残念と言って定家、家隆に撰歌させている。尤も後鳥羽院はこの歌を気に入らなかったらしく、隠岐本では削除されている。
また、同じく四月十五日には良経の意見により定家の歌を3首切り出され、4首切り入られている。
更に新古今和歌集の切入れ、切出しが一段落してから良経に預けられ、清書をする事となったが、それぞれの疑問の箇所に付箋を打って、定家らに返答するように後鳥羽院から勅命されている。
考えるに、例えば自らが主催した六百番歌合の歌に漏れが有れば、何故漏れたのかと質問が出来る。(実質入れろと命じたに等しい。)
又、法華経二十八品歌で1首漏れたのは何故かと問えば、後鳥羽院なら入撰を命じるだろう。
そう考えると
1330恋歌四 六百番歌合
1943釈教歌 法華経二十八品歌
は九条良経が撰歌を命じた可能性がある。
参考
訓読明月記 第2巻
今川 文雄 訳 河出書房新社