寂蓮法師 俗名定長
中務少輔 從五位下
俊成卿猶子。實俊成弟醍醐俊海阿闍梨乃子也。
御抄云、明月記云建仁二年七月廿日午時計參上左中
弁少輔入道寂蓮逝去之由云云。未聞及歟聞之即退去。
已依為軽服也。浮生無常雖不可驚今聞之哀傷之思
難禁。自幼少之昔久相馴已数十廻。况於和歌之道者
傍輩誰人乎。已以竒異之逸物也。今帰泉為道可恨
於身可悲云云。寂蓮追悼之哥√玉きはる世のことは
りもたどられずおもへばつらし住よしの神定家
鵜本云、寂蓮はえもいはぬ秀人なり。毎に面白き
も幽玄にも心ありてもきこゆ。 八雲御抄云、顕昭法
師、寂蓮法師風情は無下に并びがたく侍れ
ど、稽古や久しく侍けん、しきりに哥をあらそひ
けるに、寂蓮が云、さらば寂蓮がよみ侍るやうなる
哥を顕昭つかうまつりてかくはよみつべし。
※御抄 細川幽斎抄
※明月記 藤原定家の日記。明月記 建仁二年七月二十日 寂蓮逝去
※鵜本 愚秘抄。定家に仮託された歌論の偽書
※八雲御抄 順徳院がまとめた歌論書
されどそれがあしければ顕昭がよみ侍るやうにはよむなり
と申侍らば寂蓮閉口すべし。顕昭がやうなるうたは
寂蓮が読損じたる哥に甚おほしといひける。げに
も其器無下におとれるうへは更に云所なし。無明抄
云、寂蓮詞われらがよまんやうによめといはんに季經顕昭
法師など幾日案ずともえこそよまざらめ。われかの
人〃のよむやうには只筆さしぬらしていとよく書てん
云云。井蛙抄云、一条法印云左大将家六百番哥合の時
左右の人数日〃にまいりて加評判左右申詞を書れ
けり。自餘の人は不参の日はあれども寂蓮顕昭は
毎日まいりていさかいありけり。顕昭は聖にて
独鈷を持たりける。寂蓮はかまくびもたてゝいさかひ
けり。殿中の女房例の独鈷かまくびと名付けり云云。
無明抄云、近比は定長隆信とづがひてわかくより人
※無明抄云、寂蓮詞 鴨長明無名抄。無名抄 近代歌躰事
※井蛙抄 頓阿の歌論書。井蛙抄 六百番歌合
※無明抄云、近比 鴨長明無名抄。無名抄 隆信定長一雙事
の口に同じやうにいはれ侍りき。後に寂蓮無左右と云に
なりにき。御所邊にはいかなるおこのものゝおなじつらの詠
口とは番ひそめけるぞとまで被仰けるとぞ。後には隆信か
らき事にしてはやく死なましかばさるほどの哥仙にてやみな
まし。よしなき命の長くてかく道の恥を顕はすとぞいはれける。略記
むらさめの露もまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕ぐれ
新古今秋下。五十首の哥たてまつりける時云云。哥心は
御抄云、深山の秋の夕のさま、たゞみるやうの体と也。かゝる歌は心に
深くそめてげにさる事ぞと心を付て見侍るべし。槙は深山に
あるもの也。秋の夕に村雨の打そゝぎてきら/\と槙のしめりたる
折しも霧の立のぼる様を能〃思べし。誠に面白くも淋しくも
哀も深く侍べきにや。筆舌つくしがたくこそ。師説三夕暮とて
彼槙立山の哥を寂蓮哥には世にとなふるを定家卿此百首に
は此うたをかゝせ給へるまことに風情余情是にはしくべからずとぞ。
※師説 松永貞徳説