玉葉(九条兼実日記) 訓読玉葉(高橋貞一 著)第4巻 巻第三十五より
治承四年(1180年)十二月六日 甲申。天晴。ーー略ーー。抑今暁、前源中納言雅頼卿家、狼藉の事ありと云々。この由を知らず。今旦札を送り、午後に及び報札到来し、粗この由を戴す。鬱念能はず。使者を遣はし子細を問ふ。夜に入り使皈り来たり云はく、納言申されて云ふ。先づ御使を賜はり畏り申す。狼藉の次第、凡そ是非するに能はず。今朝天已に曙けんとする程、青侍走り来たり云はく、讃岐少将殿御参り、見参すべき由を申さるると云々。即ち衣裳を着け、客亭に出でんとする間、勇士両三人、得たりおうと称す。即ち眼前に走り来たり、已に搦め捕らんとす。凡そ前後不覚、言語道断、正しく手に触るるに及ばずと雖も、大略囲繞する如く近辺にあり。この間又他の勇士等堂上に昇り、剰へ女房等の衣裳を取り、偏に追捕の如し。小時(しばらく)ありて時実少将入来し、狼藉を制止す。その時勇士等退散す。希有に虎口を免(まか)る。由緒を時実朝臣に問ふ。答へて云はく。次官親能と申す者、この殿に候ふ由聞えあり。尋問せらるべき事あるに依り、召さるる所なり。早く召し進らしめ給ふべしといへり。爰に雅頼申して云はく。この事極めて安き事なり。只召し進らすべき由仰せを蒙らば、何ぞ召し進らせざらんや。渋り申さるる時、苛責に及ぶべし。左右無く恥辱を顕はす条、左右する能はず。件の男、去夜宿直のため入り来たる。定めて候ふかといへり。時実云はく。早く召し出さるべしといへり。即ち相尋ぬる処、この夜半許り白地に門外に出で、その後今に見えずと云々。時実この由を聞き、慥かにこの殿にある由、前将軍(宗盛)聞かるる所なり。猶求むべしと云々。即ち家中を探し求むと雖も、敢へて以て見えず。仍つて勇士等を父広季の許に遣はす。その身逃げ脱るるに依り、雑色一人を搦め得たり。即ちこの雑色を以て、尋ね出すべき由、推し懸ると雖も、納言、父已に現に存する者なり。全く懸るべからざる由を申して受け取らず。その後慦ひに武士等を率ゐ、時実帰り了んぬ。次第かくの如し。この事先世の宿業なり。猶使庁の使に付けらるべき由、風聞あり。この上の事左右只宿運に任すべし。件の次官凡そ召さるる故は、幼稚の昔より相模国人に養育せられ、かの国より成人す。然る間近々謀叛の首(かしら)頼朝と年来の知音たるに依る。この事に依り、子細を尋ね問はんため、召さるる所と云々(已上雅頼の報旨)。凡そ世間の濫吹狼藉、辞を以て演(の)ぶべからず。筆を以て記すべからず。心うき世なり。この事時忠卿の奉行たりと云々。件の人の沙汰に懸る事、人として恥辱及ばざるなし。弾指すべき世なり。委しき趣は短毫の及ぶ所にあらず。希異の勝事たるに依り、十分の一を録するのみ。伝へ聞く、近江国の武士三千余騎、官兵(僅に二千騎許り)のために追ひ散らされ了んぬと云々。後に聞く、納言家の狼藉の事、使庁の沙汰にあらず。只前幕下(宗盛)の下知と云々。
中原親能平安時代末期から鎌倉時代初期の下級貴族、鎌倉幕府の文官御家人。源頼朝の側近。正五位下、明法博士、斎院次官、美濃権守、式部大夫、式部大輔、掃部頭、穀倉院別当。鎌倉幕府 公文。
大友氏の初代である大友能直の出自は様々な議論があるが、相模国愛甲郡古庄郷司であった近藤(古庄)能成の子とされる。親能の妻と能成の妻はいずれも波多野経家の娘で姉妹であり、その関係で親能の猶子になったと思われる[11]。
大友 能直(おおとも よしなお)は、鎌倉時代初期の武将・御家人。近藤氏の出で、大友氏の初代当主。父は近藤能成(近藤太能成)、母は波多野経家の三女・利根局。養父に中原親能。