$ 0 0 柳瀬一雄氏は不奉請説を支持しつつ、「仏名を唱える前には、仏を招請し奉る儀礼をととのえるべきであるが、心せいていて、その暇がない。」としている。 しかし、方丈の庵に一人いて、誰からも「何々しろ」とは言われず、「静かなる暁」ボーと閑居の修業生活を「みづから心に問ひて」いるだけの長明が、奉請の儀礼より何に対して「暇がない」と言えるのだろうか。根本的な無理が有る。