おとはやませいすいじ
音羽山清水寺
新勅撰
けふこずは
音羽の さくら いかにぞと 見る人 ごとに 問まし 物を 権中納言俊忠
新勅撰集巻第二 春歌下 権中納言俊忠 けふ來ずは音羽の櫻いかにぞと見る人ごとにとはましものを 音羽山清水寺は本尊十一面千手千眼観世音菩薩。脇士は毘沙門天 地藏菩薩なり。抑當寺の來由を尋るに大和国小嶋寺の沙門延鎮 宝亀九年の夏霊夢を感ずる事ありて木津川の辺りに行て見れば 一ツの流に金色の光あり。源を尋て直に登るに一流の瀧なり。傍をみれば 茅ふきたる庵に白衣を着せる老翁あり。延鎮此庵に入て御身は いかなる人ぞ。翁の日く我名は行叡。此地に住事は既に二百歳に及べり。 常に千手真言を誦ふ。我貴僧を待こと久し。東に行んとおもふ 志あれば御身しばらくこゝに住給へ。我此霊木を以て大悲の像を作り 精舎を建ん願あり。若遅くかへりなば御身我にかはりて此ねがひを成 就し給へといへり。延鎮もとより夢の告あれば辞する事なく翁の心 にまかせける。大いに悦て翁は東に向ふて菴を出たり。夫より延鎮此 所に住めり。或時山科の東の嶺にてかの翁の履を拾へり。延鎮おもへらく さてはかの翁は大悲の應現まし/\けるよとありがたくいよ/\大悲の 尊像を安置せんとねがひ有ながらちからたらずして年月を送りしに 延暦十七年に将軍坂上田村丸産婦のために鹿を猟して音羽山 にわけ入りかの草菴に至れり。延鎮田村丸に逢て翁のしめせし事を 告る。田村丸渇仰の思ひをなし屡延鎮の相好を見るに神仙の如し。 是即ち大士の化現ならんと信心いやまし、家に帰りて妻女にかたれり。 妻の曰わが病の治せんとて多くの殺生をなす此罪いたつてふかゝる べし。其教にまかせて大悲の尊像を安置し奉らばいかばかりの利 益なるべしと。夫婦心をあはせて観音寺を建て延鎮に寄附せん事を 約す。又行叡より授りし霊木を以つて観音の像を作らん事を願ふ。延鎮 其夜夢中に十一人の僧來て大悲の像を作る。長八尺十一面四十臂の千手 観音也。造り終ツて十一人の工僧行方を知らず。夢覚て見るに赫奕た尊 容現じ給ひて目前にあり。當寺本尊是也。夫より佛殿を建んと思ふに此地 瞼岨にして尺地もなかりけれはいかゞと心憂かりしに其夜多くの鹿きたりて
やすらかに平地になせしかば佛殿を造りて大悲の像を安置し奉れり。(鹿間塚は 此由縁也) 脇士地藏毘沙門天は延鎮法師の作なり。田村丸延暦二十年に詔を うけて東夷征罸の時此本尊に祈りしかば観世音地藏毘沙門天彼 戦場に現じ給ひてこと/"\く退治し給ふ。同廿四年に田村丸太政官符 の宣旨を蒙りて堂塔を建立し勅願所となし又大同二年紫辰殿 を給ひて伽藍となし観音寺を改て清水寺と號せり。 奥の院の本尊は千手観音の立像なり。此地は延鎮法師草菴 の跡なりとぞ。 阿弥陀堂は瀧山寺と號す。本尊は阿弥陀佛の坐像を安置す。文治 四年五月十五日法然上人瀧山寺にて不断常行念佛を開闢し給ふ。 今に退轉なし。朝倉堂は越前の国司朝倉弾正貞景是を建立す。 田村堂には田村将軍鈴鹿権現行叡延鎮等の像を安置す。 梟水は中門の西にあり。霊泉にして地中より涌出ること寒暑に絶えず。
地主権現のやしろは大己貴命なり。例祭は四月九日。清水坂八坂郷 の祭なり。當山はむかしより桜の名所にして春も弥生の比は花咲 一入にかをりてさながら雲と見れば雪と散りて瓢客のこゝろを 動し、盃の数そひて歌よみ詩つくりてたはめる枝/\に短尺むすぴ つけしも春色の風流なり。 音羽瀧は奥之院の下にあり。瀧口三すじ西のかたへ落ちて四季増 減なし。 新古今 音羽山さやかに見する白雪を明ぬと告ぐる鳥の声哉 高倉院 家事首 みるまゝに清水山の瀧津せは心すみますものにざりける 為盛 爪形観音は悪七兵衛景清爪をもつて千手観音を石面に彫りし也。 景清守本尊も傍の庵室にあり。
新古今和歌集巻第六 冬歌 うへのおのこども曉望山雪といへる こころをつかまつりけるに 高倉院御歌音羽山さやかにみする白雪を明けぬとつぐる鳥のこゑかな
よみ:おとわやまさやかにみするしらゆきをあけぬとつぐるとりのこえかな 隠
意味:音羽山で、雪明りで明るくなったと白雪を見て、夜が明けたと勘違いして時を告げる鶏の声がするなあ。
備考:音羽山は、清水寺の山の可能性が高い。
音羽山清水寺
新勅撰
けふこずは
音羽の さくら いかにぞと 見る人 ごとに 問まし 物を 権中納言俊忠
新勅撰集巻第二 春歌下 権中納言俊忠 けふ來ずは音羽の櫻いかにぞと見る人ごとにとはましものを 音羽山清水寺は本尊十一面千手千眼観世音菩薩。脇士は毘沙門天 地藏菩薩なり。抑當寺の來由を尋るに大和国小嶋寺の沙門延鎮 宝亀九年の夏霊夢を感ずる事ありて木津川の辺りに行て見れば 一ツの流に金色の光あり。源を尋て直に登るに一流の瀧なり。傍をみれば 茅ふきたる庵に白衣を着せる老翁あり。延鎮此庵に入て御身は いかなる人ぞ。翁の日く我名は行叡。此地に住事は既に二百歳に及べり。 常に千手真言を誦ふ。我貴僧を待こと久し。東に行んとおもふ 志あれば御身しばらくこゝに住給へ。我此霊木を以て大悲の像を作り 精舎を建ん願あり。若遅くかへりなば御身我にかはりて此ねがひを成 就し給へといへり。延鎮もとより夢の告あれば辞する事なく翁の心 にまかせける。大いに悦て翁は東に向ふて菴を出たり。夫より延鎮此 所に住めり。或時山科の東の嶺にてかの翁の履を拾へり。延鎮おもへらく さてはかの翁は大悲の應現まし/\けるよとありがたくいよ/\大悲の 尊像を安置せんとねがひ有ながらちからたらずして年月を送りしに 延暦十七年に将軍坂上田村丸産婦のために鹿を猟して音羽山 にわけ入りかの草菴に至れり。延鎮田村丸に逢て翁のしめせし事を 告る。田村丸渇仰の思ひをなし屡延鎮の相好を見るに神仙の如し。 是即ち大士の化現ならんと信心いやまし、家に帰りて妻女にかたれり。 妻の曰わが病の治せんとて多くの殺生をなす此罪いたつてふかゝる べし。其教にまかせて大悲の尊像を安置し奉らばいかばかりの利 益なるべしと。夫婦心をあはせて観音寺を建て延鎮に寄附せん事を 約す。又行叡より授りし霊木を以つて観音の像を作らん事を願ふ。延鎮 其夜夢中に十一人の僧來て大悲の像を作る。長八尺十一面四十臂の千手 観音也。造り終ツて十一人の工僧行方を知らず。夢覚て見るに赫奕た尊 容現じ給ひて目前にあり。當寺本尊是也。夫より佛殿を建んと思ふに此地 瞼岨にして尺地もなかりけれはいかゞと心憂かりしに其夜多くの鹿きたりて
やすらかに平地になせしかば佛殿を造りて大悲の像を安置し奉れり。(鹿間塚は 此由縁也) 脇士地藏毘沙門天は延鎮法師の作なり。田村丸延暦二十年に詔を うけて東夷征罸の時此本尊に祈りしかば観世音地藏毘沙門天彼 戦場に現じ給ひてこと/"\く退治し給ふ。同廿四年に田村丸太政官符 の宣旨を蒙りて堂塔を建立し勅願所となし又大同二年紫辰殿 を給ひて伽藍となし観音寺を改て清水寺と號せり。 奥の院の本尊は千手観音の立像なり。此地は延鎮法師草菴 の跡なりとぞ。 阿弥陀堂は瀧山寺と號す。本尊は阿弥陀佛の坐像を安置す。文治 四年五月十五日法然上人瀧山寺にて不断常行念佛を開闢し給ふ。 今に退轉なし。朝倉堂は越前の国司朝倉弾正貞景是を建立す。 田村堂には田村将軍鈴鹿権現行叡延鎮等の像を安置す。 梟水は中門の西にあり。霊泉にして地中より涌出ること寒暑に絶えず。
地主権現のやしろは大己貴命なり。例祭は四月九日。清水坂八坂郷 の祭なり。當山はむかしより桜の名所にして春も弥生の比は花咲 一入にかをりてさながら雲と見れば雪と散りて瓢客のこゝろを 動し、盃の数そひて歌よみ詩つくりてたはめる枝/\に短尺むすぴ つけしも春色の風流なり。 音羽瀧は奥之院の下にあり。瀧口三すじ西のかたへ落ちて四季増 減なし。 新古今 音羽山さやかに見する白雪を明ぬと告ぐる鳥の声哉 高倉院 家事首 みるまゝに清水山の瀧津せは心すみますものにざりける 為盛 爪形観音は悪七兵衛景清爪をもつて千手観音を石面に彫りし也。 景清守本尊も傍の庵室にあり。
新古今和歌集巻第六 冬歌 うへのおのこども曉望山雪といへる こころをつかまつりけるに 高倉院御歌音羽山さやかにみする白雪を明けぬとつぐる鳥のこゑかな
よみ:おとわやまさやかにみするしらゆきをあけぬとつぐるとりのこえかな 隠
意味:音羽山で、雪明りで明るくなったと白雪を見て、夜が明けたと勘違いして時を告げる鶏の声がするなあ。
備考:音羽山は、清水寺の山の可能性が高い。