ふようろうにしておくるしんせんを おうせうれい
芙蓉樓送辛漸 王昌齢
かんうつらなつてこうによるいるこにへいめいおくつてかくをそさんこなり。らくようの
寒雨連江夜入呉平明送客楚山孤洛陽
しんゆうことしあいとはヽいつへんのへうしんありきよくこに
親友如相問一片氷心在玉壺
われ今させんのみてあめふりのさむいしふんにあめにうたれなから川はたとをりをよるそこくよりごこくへ
ゆく。このところでこなたにであふてふようろうにのほり夜あけかたのおりふしかくをおくつて見れはそこく
のかたに一ツはなれた山があるゆへいよ/\おもひをそゆる事甚しい。もしあの方○くやうへゆきついてとも
たちともがぶしじしやかどにしているそととふたらばむかしみやこにいたときはふうきをもたのみにしたが
今はわが一へんの心かた○のつほのこほりのことくさつはりとしてふらきをねかせぬから都へゆくきはないといわれへ。
芙蓉楼にて辛漸を送る
王昌齢
寒雨、江に連なって夜呉に入る
平明、客を送って楚山孤なり。
洛陽の親友、如(も)し相問はば、
一片の氷心、玉壺に在り。
私訳 冷たい雨が揚子江の上流江寧に降って、ここ鎮江に、別れの悲しみの我々と共に夜流れ着いた。明け方に君を送ってしまうと、楚の方向の山がポツンと朝日に照らされ、孤独になった私のようだ。洛陽の友人が、若し私の事を尋ねたら、鮑照の詩の様に、玉壺の中の一片の氷の如く、清く澄みきったままだと伝えてくれ。
補足詩の内容を、江寧に左遷させられた王昌齢を、洛陽の古い友人の辛漸が訪ねてくれて、京杭大運河で洛陽まで帰るのを鎮江市の芙蓉楼まで送ったと推察した。
私訳 冷たい雨が揚子江の上流江寧に降って、ここ鎮江に、別れの悲しみの我々と共に夜流れ着いた。明け方に君を送ってしまうと、楚の方向の山がポツンと朝日に照らされ、孤独になった私のようだ。洛陽の友人が、若し私の事を尋ねたら、鮑照の詩の様に、玉壺の中の一片の氷の如く、清く澄みきったままだと伝えてくれ。
補足詩の内容を、江寧に左遷させられた王昌齢を、洛陽の古い友人の辛漸が訪ねてくれて、京杭大運河で洛陽まで帰るのを鎮江市の芙蓉楼まで送ったと推察した。
※芙蓉楼 江蘇省鎮江市の揚子江岸にあった楼で景勝の地。鎮江は、隋の煬帝が掘削した京杭大運河と揚子江の交わる交通の要所だった。
※辛漸 王昌齢の友人だが、伝記不詳。
※王昌齢 奔放な生活ぶりで江寧(現在の江蘇省南京市江寧区)県丞に左遷させられていた。
※江 揚子江。
※呉 江蘇省南部の古い地名。
※平明 日の出前の薄明の時刻。
※楚山 楚の山だが、揚子江の対岸の山を指しているものと考えられてる。しかし、対岸は平野、湿地帯で山は無い。
※洛陽 黄河中流の古代からの政治、文化的中心地。洛陽は江南の物資を長安の軍事、政治と結びつける集積地として東都とも呼ばれて繁栄した。
如(も)し相問はば、
※氷心、玉壺に在り 劉宗の鮑照の五言律詩『白頭吟』「清きこと玉壺の氷の如し」による。
横浜中華街関帝廟
唐詩選畫本 七言絶句 巻三