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Channel: 新古今和歌集の部屋
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雑歌上 俊成、有家 山崎宗鑑筆断簡コレクション

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  新古今和歌集巻㐧十六  雑哥上   入道前関白太政大臣家百首哥よ   ませ侍けるに立春の心を             皇太后宮大夫俊成 年くれし涙のつらゝとけにけり苔の袖にもはるやたつらん   土御門内大臣家に山家残雪といふ心を   よみ侍けるに  藤原有家朝臣 山かげやさらでは庭に□□□□春ぞきにける雪の村
                              ぎえ

  雑歌上  入道前關白太政大臣家に百首歌よませ侍りけるに  立春のこころを                皇太后宮大夫俊成 年暮れし涙のつらら解けにけり苔の袖にも春やたつらむ   よみ:としくれしなみだのつららとけにけりこけのそでにもはるやたつらむ 隠    意味:年も暮れる悲しみの涙が凍ってつららとなったものも溶けてしまいました。僧侶の身にも春はやってくるのだろうか。   備考:治承二年藤原兼実右大臣家百首。本歌 雪の内に春は来にけり鶯の氷れる涙今やとくらむ(古今集春歌上 二条后)    

  土御門内大臣家に山家残雪といふ心をよみ侍りけるに

               藤原有家朝臣

山かげやさらでは庭に跡もなし春ぞ來にける雪のむらぎえ

よみ:やまかげやさらではにわにあともなしはるぞきにけるゆきのむらぎえ 隠

意味:我が庵のある山陰よ。こんな山奥の庭に人の訪れる気配は無い。しかし春は来たらしい。雪が所々消えてきたから。

備考:正治三年正月十八日内大臣源通親家影供歌合

  山崎宗鑑 極札 朝倉茂入印   山崎宗鑑(寛正6年(1465年)? - 天文23年(1554年)?) 戦国時代の連歌師・俳諧作者。近江国の志那町。 近江国栗太郡志那村(後の常盤村、現草津市志那町)に生まれ、佐々木義清の裔で志那弥三郎範重と言い、幼少時より室町幕府9代将軍足利義尚に仕え(近習とも祐筆とも)、一休禅師とも親しくよく連れ立って志那に来たと伝えられている。 義尚が鈎の陣で没した(延徳元年、1489年)後、世の無常を感じ出家した。摂津国尼崎または山城国薪村に隠棲し、その後淀川河畔の山城国(摂津国?)山崎に庵「對月庵」を結び、山崎宗鑑と呼ばれた。現在大阪府島本町山崎に「宗鑑井戸」「宗鑑旧居跡」が残されている。大永3年(1523年)ごろ山崎の地を去り、享禄元年(1528年)に讃岐国(香川県観音寺市)の興昌寺に庵「一夜庵」を結びそこで生涯を終えた。「一夜庵」の名は宗鑑が長居の客を厭い一夜以上の宿泊を断ったからといい、建物は修復を重ねながら現地に残されている。 最初連歌師を志し宗祇・宗長等と交わったが、滑稽機智を主眼とし天性の洒落気を持つ宗鑑には貴族的で伝統を重んじる連歌の世界は肌に合わず、より自由な俳諧の世界へと足を踏み入れた。当時俳諧は未だ連歌から完全に独立したものではなく、連歌の余興として扱われていた。保守的な連歌師は宗鑑の作風と俳諧を卑属・滑稽と哂ったが、宗鑑は「かしましや 此の里過ぎよ 時鳥 都のうつけ 如何に聞くらむ」と逆に哄笑し、より民衆的な色彩の中に自己の行く道を見出し、座興として捨てられていた俳諧を丹念に記録・整理して俳諧撰集の草分けである「犬筑波集」を編み、俳諧を独立した芸術として世間に公表した[1]。俳諧撰集「犬筑波集」の自由奔放で滑稽味のあるその句風は、江戸時代初期の談林俳諧に影響を与え、荒木田守武とともに、俳諧の祖と称される。   山崎宗鑑筆


「白」が近似。

令和4年11月8日 弐

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