廿五日、菊川を出でゝ、今日は大井川といふ河を渡る。水いとあせて、聞ゝしには違ひてわづらひ無し。河原幾里とかや。いと遥か也。水の出でたらん面影、推し量らる。
思ひ出づる都とのことは大井川幾瀬の石の数も及ばじ。
宇津の山越ゆる程にしも、阿闍梨の見知りたる山伏行あひたり。「夢にも人を」など、昔をわざとまねびたらん心地して、いと珍かに、おかしくも哀れにもやさしくも覚ゆ。急ぐ道なりと言へば、文もあまたはえ書ゝず。たゞやむごとなき所一つにぞ。音信れ聞こゆる。
我が心うつゝともなし宇津の山夢にも遠き都恋ふとて
蔦楓時雨れぬ隙も宇津の山涙に袖の色ぞ焦がるゝ
今宵は、手越といふ所にとゞまる。なにがしの僧正とかやの上るとて、いと人しげし。宿借りかねたりつれど、さすがに人のなき宿も有けり。
廿六日、藁科川とかや渡りて、沖津の浜に打出づ。「なく/\出でし跡の月影」など、先づ思ひ出でらる。昼立ち入たる所に、あやしき黄楊の小枕あり。いと苦しければ打臥したるに、硯も見ゆれば、枕の障子に、臥ながら書きつく。
なをざりのみるめばかりをかり枕結びおきつと人に語るな
暮かゝる程、清見が関を過ぐ。岩越す浪の白き衣を打着するやうに見ゆる、いとおかし。
清見潟年経る岩に言問はむ浪の濡衣幾重ね着つ
程なく暮て、其わたりの海近き里にとゞまりぬ。浦人のしわざにや。隣よりくゆりかゝる煙、いとむつかしきにほひなれば、「夜の宿なまぐさし」と言ひける人の詞も思ひ出でらる。夜もすがら風いと荒れて、浪たゞ枕に立騒ぐ。
ならはずよよそに聞きこし清見潟荒磯浪のかゝる寝覚は
富士の山を見れば、煙も立たず。昔、父の朝臣に誘はれて、「いかに鳴海の浦なれば」など詠みし比、遠江国のまでは見しかば、富士の煙の末も朝夕確かに見えし物を、いつの年よりか絶しと問へば、さだかに答ふる人だに無し。
誰が方になびき果てゝか富士の嶺の煙の末の見えずなるらん
古今の序の詞まで思ひ出でられて、
いつの世の麓の塵か富士の嶺を雪さへ高き山となしけん
朽果てし長柄を造らばや富士の煙も立つずなりなば
今宵は、浪の上といふ所に宿りて、荒れたる音左右に、目も合はず。
廿七日、明はなれて後、富士川渡る。朝河いと寒し。数ふれば十五瀬をぞ渡りぬ。
さえ詫びぬ雪よりおろす富士河の川風凍る冬の衣手
今日はいとうらゝかにて、田子の浦に打出づ。海人どもの漁りするを見ても、
心からおり立つ田子の蜑衣乾さぬ恨みと人に語るな
とぞ言はまほしき。
(昔男時世妝より)
新古今和歌集 巻第十羇 旅歌
駿河の國宇都の山に逢へる人につけて京にふみ遣はしける
在原業平朝臣
駿河なる宇都の山邊のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり
よみ:するがなるうつのやまべのうつつにもゆめにもひとにあわぬなりけり 隠
意味:遠い駿河の宇津の山に来て、現実でも夢でも貴方にお会いするなんて、難しいのは、貴方が薄情になったからでしょうか。
備考:伊勢物語 九段
伊勢物語 九段
行き/\て、駿河の國にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道は、いと暗う細きに、つたかへでは茂り、もの心ぼそく、すゞろなるめを見ることと思ふに、す行者あひたり。かゝる道はいかでかいまするといふを見れば、見し人なりけり。京に、その人の御もとにとて、ふみ書きてつく。
駿河なる宇津の山べのうつゝにも夢にも人にあはぬなりけり
巻第十 羇旅歌
守覺法親王の家に五十首歌よませ侍りけるに旅歌
こととへよ思ひおきつの濱千鳥なくなく出でしあとの月影
こととえよおもいおきつのはまちどりなくなくいでしあとのつきかげ 隠 有雅
備考:守覚法親王五十首
古今集仮名序
あるははなをそふとてたよりなきところにまどひ、あるは月をおもふとて、しるべなきやみにたどれるこゝろ/"\をみたまひて、さかしおろかなりとしろしめしけむ。しかあるのみにあらず、さゞれいしにたとへ、つくばやまにかけてきみをねがひ、よろこびみにすぎ、たのしびこゝろにあまり、ふじのけぶりによそへて人をこひ、まつむしのねにともをしのび、たかさごすみのえのまつもあひおひのやうにおぼえ、をとこやまのむかしをおもひいでゝ、をみなへしのひとゝきをくねるにも歌をいひてぞなぐさめける。
古今集
題しらす 伊勢
難波なる長柄の橋もつくるなり今はわか身を何にたとへむ
阿仏尼の著。作者が亡夫藤原為家との間にもうけた愛児為相のため、播磨国細川庄(兵庫県三木市細川町)の相続権を異腹の長子為氏と争い、1279年(弘安2)訴訟のため鎌倉に下ったときの紀行的日記。序章と下向の道の記、鎌倉月影の谷滞在中の望郷の記、勝訴を鶴岡八幡宮に祈り幕府の善政を願う長歌の3部からなる。1、2部は弘安2年から3年にかけて成ったかとみられ、第3部の長歌は5年春の作。書名は、出立に際しての心境「身をえうなきものになし果てて、ゆくりもなく、いさよふ月にさそはれ」にちなむ後人の命名ともいわれる。別名『路次記(ろじのき)』『阿仏房紀行』『いさよひの記』など。母性愛と歌道家後室の自覚とに支えられた意志的女性の日記として特色があり、道の記に収める多くの和歌は、為相らに歌枕とその詠み方を教える教科書的意図をもつという見方もなされている。「ささがにの蜘蛛手あやふき八橋を夕暮かけてわたりぬるかな」。また鎌倉滞在中の詠「忍び音は比企の谷なる時鳥雲井に高くいつか名のらん」はその真情を示す。細川庄訴訟は阿仏尼の没後1289年(正応2)為相の勝訴が認められ、なお紛糾したが1313年(正和2)最終的に勝訴と決した。