平等供奉離山趣異州事
中比山に平等供奉と云て止ことなき人ありけり。即天
台真言の祖師也。有時隠所に在けるが俄に露の無
常を悟心起て、何としてかくはかなき世に名利にのみほ
だされて、厭べき身を惜つゝ空く明くらす處ぞと思に、過に
し方もくやしく年來の栖もうとましく覚ければ、更に立帰べ
き心ちせず。白衣にてあしださしはきをりけるまゝに、衣なんど
だにきず。何地ともなく出て西の坂を下て京の方へ
下りぬ。いづくに行止べしとも覚ざりければ、行るゝに任て淀
の方へまどひありき下舩の有けるに乗とす。㒵なんども世の
つねならず。あやしとてうけひかねども、あながちに見ければ
乗つ。さても何なる事によりて何くへをわする人ぞと問ば、更に
何事と思わきたる事もなし。さして行つく處もなし。只
いづ方なりともおわせし方へまからんと思と云へば、いと
意ゑぬ事のさま哉とかたむきあひたれど、さすがになさけなくは
非ざりければ、自此舟の便に伊豫の國に至りにけり。さて
彼國にいつともなく迷ありきて乞食をして日を送ければ、
國の者ども門乞食とぞ付たりける。山の坊にはあから
さまにて出給ぬる後久成ぬるこそあやしふなむどいへど、
かくとは争かおもひよらん。自ゆへこそあらめなむ云程に
日もくれ夜もあけぬ。驚て尋求れど更になし。云かひなく
して偏に亡人になしつゝ、泣々跡のわざを營あへりける。
かゝる間に此國の守なりける人、供奉の弟子に浄真
阿闍梨と云人を年比あひしたしみて祈なむどせさせ
ければ、國へ下るとて遥なる程に憑もしからむと云て具し
て下にけり。此門乞食かくとも知らで、たちの内へ入にけり。
物をこふ間に童部どもいくらともなく尻に立て笑のゝしる。
こゝら集れる國の物ども事やうの物の樣かな。罷出よと
はしたなくいさなむを、此阿闍梨哀みて物なむど取せむと
てまぢかくよぶ。恐々縁のきわへ來たるを見れば、人の形に
も非ずやせをとろへ、物のはら/\とあるつゞりばかりきて、
實にあやしげ也。さすがに見しやうに覚るをよく/\思出
れば我師也けり。あはれに悲くてすだれの内よりまろび出
でゝ縁の上にひきのぼす。守より始て有と在る人驚き
あやしむあまり泣々樣々にかたらへど詞すくなにてし
ゐていとまをこひて去にけり。云ばかりもなくてあさの
衣やうの物用意して有處を尋けるに、ふつとゑたづね
あはず。はてには國の者どもに仰せて山林至らぬくま
なくふみもとめけれどもあわで其ま々に跡をくらふして
終に行末も知らず成にけり。其後はるかに程へて、人も
かよはぬ深山の奧の清水のある所に死人の有と山
人の語けるに、あやしく覚へて尋行て見れば、此法師西に
向て合掌して居たりけり。いと哀に貴く覚て阿闍梨
なく/\とかくの事ともしける。今も昔も實に心を發
せる人はかやうに古郷をはなれ、みづしらぬ處にていさぎ
よく名利をば捨てうする也。菩薩の無生忍を得すら、
もと見たる人の前にては神通をあらはす事難しと云へり。
況今發せる心は止事なけれど、未不退の位に至らねば
事にふれて乱やすし。古郷にすみしれる人にまじりては、争
か一念妄心をこさゞらむ
※平等供奉 平燈とも。供奉は、内供奉の略で宮中の内道場で読師などを務めた高僧。 ※白衣 僧が法衣をまとわない下着姿。 ※門乞食 門に立って物乞いをする者。 ※此國の守なりける人 発心集と同時代の古事談の同類話によれば、藤原知章。伊予の守だったのは、長徳元年(995年)頃。 ※物のはら/\とあるつゞり ボロボロとなったみすぼらしい僧衣。布を継ぎ合わせた着物。