はしのなみにくちぬる名をおしみ
ても心うちにうこきことほかにあら
はれすといふことなし。いはむやすみ
よしの神はかたそきのことのはを
のこし傳教大師は我たつそまに
おもひをのへたまへり。かくのことき
しらぬむかしの人の心をもあらはし
ゆきて見ぬさかひのほかのこと
(長柄の)
橋の浪に朽ちぬる名を惜しみても、心(の)うちに動き、こと(ば)ほかにあらはれずといふ事なし。いはむや住吉の神は片そぎの言の葉を残し、伝教大師はわがたつ杣の思をのべ給えり。かくの如き知らぬ昔の人の心をもあらはし、行きて見ぬ境のほかの事
(をも知るは、ただこの道ならし。)
頓阿(とんあ / とんな)
正応二年(1289年) - 文中元年/応安五年(1372年)。鎌倉時代後期から南北朝時代の僧。父は二階堂氏一族の二階堂光貞とされるが、藤原師実の子孫という説もある。俗名は二階堂貞宗。子に僧・歌人の経賢がいる。
西行を史蹟を慕って諸国を行脚、京都東山双林寺の西行の旧跡に草庵を構えるなど隠遁者の生活を送った。二条為世に師事して活躍、二条派(歌道)再興の祖とされ、20歳代で慶運・浄弁・吉田兼好とともに和歌四天王の一人とされた。
地下の歌人であり、歌壇での活躍は晩年であった。「新拾遺和歌集」撰進の際には撰者二条為明が選集の途中で亡くなったことから、頓阿がそれを引き継いで完成させたが、撰者となったのは76歳の時である。北朝の実力者二条良基の保護を受けた。
『続千載集』以下の勅撰和歌集に44首が入集。著書に『井蛙抄』、『愚問賢註』などがある。
古筆了音
延宝二年(1674年)-享保十年(1725年)。江戸時代前期-中期の古筆鑑定家。古筆了(りょうみん)の次男。父のあとをつぎ,古筆宗家6代となった。姓は平沢、名は最博。
壬午
元禄十五年(1702年)
20.5cm×13.5cm
平成28年1月15日 拾陸
↧
仮名序 頓阿筆断簡コレクション
↧