左京大夫顕輔
√たれもみな花のみやこにちりはてゝ
堂礼毛ミ那花乃ミ也こ尓ちり者てゝ
ひとりしくるゝあきのやま里
比とりしくるゝあ幾能也万里
公守朝臣みまかりて後春法
金剛院の花をみて
後徳大寺左大臣
√花みてはいとゝいゑちそいそかれぬ
花見て八いとゝいゑちそいそ可連ぬ
まつらんと思ふ人しなけれは
まつらんと思ふ人し奈け連八
定家朝臣母のおもひに侍ける
新古今和歌集 巻第八 哀傷歌
764 左京大夫顕輔
誰もみな花のみやこに散りはててひとりしぐるる秋のやま里
765 後徳大寺左大臣
花見てはいとど家路ぞ急がれぬ待つらむと思ふ人しなければ
惣持院行助
行助(ぎょうじょ)
室町時代の連歌師・僧侶。号は惣持坊。宗砌に師事。連歌七賢の一人。『新選菟玖波集』に二四句入集。文明元年(1469)歿、65才。
室町時代の連歌集竹林抄(文明8 (1476) 年成立)において、宗祇が連歌の先達7人を竹林の七賢に擬し,その句を集めたもの。宗砌,宗伊,心敬,行助,専順,智蘊,能阿の七人。
新古今和歌集の隠岐本においては、烏丸本、合点本、小宮本とも撰者名が注記されている。
これは、家隆が隠岐の後鳥羽院から隠岐本削除歌を指示され合点を書き記したものを、後世の者が書写するに、撰者名注記の定家筆本を校合したため、合わせて書写されたものとされる。
又、前田家本など定家本を直接書写した二条流のものは、撰者名注記しかなく、隠岐本合点は無い。
離別歌 東常縁筆断簡コレクション
参照
巻第八 哀傷歌、764 左京大夫顕輔 765 後徳大寺左大臣は、共に撰者名は有家、隠岐削除歌で有る(隠岐本、体系本など)事から、この断簡は、撰者名注記の無い隠岐本の可能性が高く、行助は、家隆本を直接又は間接的に書写した可能性が高い。
平成29年1月12日 伍點伍
√たれもみな花のみやこにちりはてゝ
堂礼毛ミ那花乃ミ也こ尓ちり者てゝ
ひとりしくるゝあきのやま里
比とりしくるゝあ幾能也万里
公守朝臣みまかりて後春法
金剛院の花をみて
後徳大寺左大臣
√花みてはいとゝいゑちそいそかれぬ
花見て八いとゝいゑちそいそ可連ぬ
まつらんと思ふ人しなけれは
まつらんと思ふ人し奈け連八
定家朝臣母のおもひに侍ける
新古今和歌集 巻第八 哀傷歌
764 左京大夫顕輔
誰もみな花のみやこに散りはててひとりしぐるる秋のやま里
765 後徳大寺左大臣
花見てはいとど家路ぞ急がれぬ待つらむと思ふ人しなければ
惣持院行助
行助(ぎょうじょ)
室町時代の連歌師・僧侶。号は惣持坊。宗砌に師事。連歌七賢の一人。『新選菟玖波集』に二四句入集。文明元年(1469)歿、65才。
室町時代の連歌集竹林抄(文明8 (1476) 年成立)において、宗祇が連歌の先達7人を竹林の七賢に擬し,その句を集めたもの。宗砌,宗伊,心敬,行助,専順,智蘊,能阿の七人。
新古今和歌集の隠岐本においては、烏丸本、合点本、小宮本とも撰者名が注記されている。
これは、家隆が隠岐の後鳥羽院から隠岐本削除歌を指示され合点を書き記したものを、後世の者が書写するに、撰者名注記の定家筆本を校合したため、合わせて書写されたものとされる。
又、前田家本など定家本を直接書写した二条流のものは、撰者名注記しかなく、隠岐本合点は無い。
離別歌 東常縁筆断簡コレクション
参照
巻第八 哀傷歌、764 左京大夫顕輔 765 後徳大寺左大臣は、共に撰者名は有家、隠岐削除歌で有る(隠岐本、体系本など)事から、この断簡は、撰者名注記の無い隠岐本の可能性が高く、行助は、家隆本を直接又は間接的に書写した可能性が高い。
平成29年1月12日 伍點伍