都名所圖會 第一に
西行水は三條坊門室町の東にあり。(洛中の名水なり。西行上人此地に住居し
此井は楊枝を以て掘出すなりとぞ)
と有り、【九里】を探して三千里様が西行水 楊枝を以って…で御紹介された地図を元に現在地での西行水位置を推定する。
1 親ラン上人の地
浄土真宗の親鸞の旧跡は、今の浄土真宗本願寺派の双光山明福寺の説明に、「当寺の起源は、近江源氏の流れを汲む青地氏に始まる。青地左衛門尉源頼賢は近江国栗太郡青地庄(現在の草津市青地町)の領主であった。…頼賢より四代目に当たる領主の弟浄祐が、慶長四年(一五九九年)二月、京都の三條坊門万里小路東(現在地)に社基を移し一宇を建立した。…現在の地に開基した由来は、親鸞聖人敬慕の念厚く聖人御一家が関東から移住し御往生されるまで二十七年余の御住坊が、京都旧左京の押小路南万里小路東であったことから、そのもっとも近い隣接地に社基を懇請し、成就した。」と有り、この付近が親鸞の住居跡の近隣となる。
親鸞の住居地については、弟の寺に住まいして布教活動を行ったと有り、御池中学校、おいけあした保育園前に見真大師(親鸞)遷化之舊跡と有り、虎石と親鸞が名付けた石があったと有る。現在の虎石町の由来のようである。
2 等持寺
等持寺は、足利尊氏が室町幕府を開いた邸宅跡を寺院としたもので、尊氏は、三つの寺の建立を発願したが果たせず、寺名に三つの寺の字を入れたと伝承されている。実際は、期せずして敵対した弟の発願の寺とも言われている。
等持寺は、応仁の乱で灰燼となり、北区の別院に統合された。
その跡地には、足利尊氏邸等持寺跡碑が有る。
御池通の反対には、尊氏が勧請した御所八幡神社が残されている。
3 二条殿及び龍躍池
後鳥羽院が造営した押小路殿は、承久の変の後、九条道家が所有し、息子良実が相続し、五摂関家の二条家となった。
跡地は、龍池小学校となり、今の漫画ミュージアムとなっている。龍池は龍躍池の名残とのことである。
公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所が調査した押小路殿・二条殿の庭園によると発掘されたのは、二つの井戸とのことでは有るが、これが西行水とは言い切って居ない。
4 円福寺
御池通の両替町通と室町通、衣笠通の間には、龍池町と円福寺町が有る。現在は寺院は無い。
5 西行水の推定
kunorikunori様の紹介した地図によると、通を遮って龍躍池の流れが有る。
一番最初の写真の場所は、ほんの少し他より低くなっている。地下鉄を通し、土地を整地しても池跡は地盤沈下を起こしやすい。街灯も若干傾いている。
つまり、ここが龍躍池の端と見て良い。
全ての位置が、古地図と合致する事から、ここの南に西行水があったと見て良い。