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Channel: 新古今和歌集の部屋
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志賀越道の推定 考察編

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(1)江戸時代の地誌
北村季吟が著した菟藝泥赴の北白河の項には、


(2)明治時代の古地図
県道30号山中越道や比叡山ドライブウェイが出来る前はどうであったか明治18年10月編製の「滋賀縣滋賀郡里程圖」の地図を見ると、南滋賀と志賀里から伸びる山中越と坂本から比叡山を登る雲母越の二本しか記録されていない。
山中越の地図から、今の志賀峠~山中町を示している。

つまり明治期になるとこのルート以外は廃れて、林業従事者など以外は利用していなかったと推察される。

(3)日本後紀の嵯峨天皇行幸
前述の嵯峨天皇の行幸を記録した日本後紀によると
日本後紀弘仁六年四月十二日
近江國滋賀韓崎に幸す。便ち崇福寺を過ぐ。大僧都永忠、護命法師等衆僧を率い門外に迎え奉る。皇帝輿を降り堂に昇り佛を禮す。更らに梵釋寺を過ぐ。輿を停めて詩を賦す。
と有る。その詩は前述の通り、文華秀麗集「梵釋寺に過ぎる一首 御製」と残っている。
崇福寺跡を発掘した考古学的調査によれば、「この南の尾根上の建物と北・中尾根上の建物群では、建物の方位や敷石の形状が異なることや南の尾根上の建物群周辺からは白鳳時代の遺物が出土しないことから、現在では南の尾根上建物群を桓武天皇によって建立された梵釈寺に、北・中の尾根上の建物群をあてる説が有力視されています。」としている。つまり崇福寺弥勒仏を祭った本堂は北尾根の場所に、梵釈寺を南尾根にあった事になる。

前述の日本後紀の行幸記載は、崇福寺→梵釈寺である。
とすると、今の志賀峠経由では無く、東海自然歩道を通って来ないと辻褄が合わなくなる。

(4)弁天道夢見が岡ルート
最近大量の土砂が流れ、先を行く事を断念した弁天道燈籠の先には林道が整備されており、よじ登って見ると、後は歩きやすく、夢見が岡に到達した。


小川や水無川とはいえ、一度大雨が降ると地形は変化し、これが数百回程度は繰り返されていると想像できる。大量の土砂が流れる500年前を想像して見ると、ここなら鳳輿が通過出来る。

夢見が岡からは、東海自然歩道を行けば良い。今は細くなっているが、昔はもっと広く、周りの土砂が流れ出る前は広かったのでは無いだろうか。

国土地理院地図には、東海自然歩道の坂以外に、今は砂防ダムに遮られているが、小さな小川沿いに道が有る。傾斜は東海自然歩道より緩やかである。500年前はもっと緩やかであったと思われる。
ここを通過するなら、東海自然歩道の急な坂を通過しなくても崇福寺に到達出来る。

(5)志賀越道
未踏の箇所も有るが、消去法を加え、以上のルート検索により、山中を越え、弁天道燈籠を過ぎ、弁天道西を通って夢見が岡、小川に沿って坂を降り、東海自然歩道により崇福寺北・中尾根の間を行く。
このルートを古代志賀越道と推察する。

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