源氏物語と新古今和歌集 松に掛かれる藤 藤裏葉
藤裏葉 やう/\夜更行ほどに、いたうそらなやみして、 みだり心ちいとたへがたうて、まかでん空もほと/ヾしうこそ侍ぬべけれ。とのいどころゆづり給てんやと、中將にうれへ給。おとゞ朝臣や、御やすみ所もとめよ。おきないたうゑひすゝみてむらいなれば、まかりいりぬといひすてていり給ぬ。中將はなのかげの旅ねよ。いかにぞや、くるしきしるべにぞ侍やといへば 松にちぎれるはあだなる花かは。ゆゝしや とせめ給。 巻ニ...
View Article源氏物語と新古今和歌集 つらきもあはれ 竹河
竹河 あさましきまでうらみなげゝれば、このまへ申も、余たはぶれにくゝ、いとおしと思ひて、いらへもおさおさせず。かの御五のけんぞせしゆふぐれのこともいひいでて、さばかりのゆめをだにまたみてしかな。あはれ、なにをたのみにていきたらむ。かうきこゆることものこりすくなうおぼゆれば、つらきもあはれ、といふ事こそまことなりけれと、いとまめだちていふ。 第十五 戀歌五 題しらず 清原深養父...
View Article源氏物語と新古今和歌集 万世を掛けて匂はん花 宿木
宿木 すべらきのかざしにおると藤のはなをよばぬえだに袖かけてけりうけばりたるぞにくきや よろづよをかけてにほはん花なればけふをもあかぬ色とこそみれ きみがためおれるかざしはむらさきのくもにをとらぬ花のけしきかよのつねの色ともみえず雲ゐまでたちのぼりたるふぢなみの花これやこのはらだつ大納言のなりけんとみゆれ。かたへはひがことにもやありけん。かやうに、ことなるおかしきふしもなくのみぞあなりし。 第ニ...
View Article源氏物語と新古今和歌集 浮島 東屋
東屋 こ宮の、つらうなさけなくおぼしはなちたりしに、いとゞ人げなく人にもあなづられ給とみ給れど、かうきこえさせ御覽ぜらるゝにつけてなん、いにしへのうさもなぐさみ侍。など、年ごろの物がたり、うきしまのあはれなりし事もきこえいづ。 第十五 戀歌五 中納言家持に遣はしける 山口女王 鹽竈のまへに浮きたる浮島のうきておもひのある世なりけり
View Article慈円
前大僧正慈圓 巻 巻名 前書き 歌 現代語読み 隠岐 第一 春歌上 百首奉りける時 あまのはら富士の煙の春いろの霞になびくあけぼののそら あまのはらふじのけむりのはるいろのかすみになびくあけぼののそら 隠 故郷花といへるこころを 散り散らず人もたづねぬふるさとの露けき花に春かぜぞ吹く ちりちらずひともたずねぬふるさとのつゆけきはなにはるかぜぞふく 第三 夏歌 更衣をよみ侍りける...
View Article三つの西行寺探訪
【九里】を探して三千里様のblogの西行寺 二つ地図の中にあります。で紹介されておりました古地図の現在の場所を訪ねます。 1 西行寺その一(町尻二条北) この大路は、二条大路であり、西洞院大路と東洞院大路の間に有る町尻、室町、烏丸小路から、町尻は今の新町通に当たる。...
View Article志賀越道の推定 彷徨編4
崇福寺跡 (6)田の谷峠県道30号ルート 比叡平は比叡山の窪地で、別荘地として開発されたが、住宅地に転用されて行ったとのこと。 山中町から比叡平への道は、車道を通す為に、結構山を切り崩した形跡が見られる。 田の谷の地名が有るとおり、窪地なので水が溜まる湿地で、今も池があって昔は、池を迂回した丘を通ったのかも知れない。 戦国時代の多聞院日記の永禄十三年に...
View Article志賀越道の推定 考察編
(1)江戸時代の地誌 北村季吟が著した菟藝泥赴の北白河の項には、 (2)明治時代の古地図 県道30号山中越道や比叡山ドライブウェイが出来る前はどうであったか明治18年10月編製の「滋賀縣滋賀郡里程圖」の地図を見ると、南滋賀と志賀里から伸びる山中越と坂本から比叡山を登る雲母越の二本しか記録されていない。 山中越の地図から、今の志賀峠~山中町を示している。...
View Article嵐山 西行庵
ひとりすむ庵に月のさしこすは なにか山辺の友にならまし 西行 山家集 題しらす ひとりすむいほりに月のさしこすはなにか山への友にならまし ひとりすむいほりにつきのさしこすはなにかやまべのともにならまし 二尊山 西光寺 京都市西京区嵐山山田町1 京羽二重 西行法師屋敷 嵯峨法輪寺の南に山田と伝へる所是也。今に泉水の跡あり。又二尊院惣門の入口藪の内をも古へ西行住し所となん。
View Article新古今女人秀歌 蔵書
新古今女人秀歌 著者:清水乙女 初版:昭和50年7月10日 発行:愛育出版 雑誌「篁」に掲載されたもの。 式子内親王 和泉式部 小野小町 赤染衛門 伊勢 相模 俊成女 宮内卿 紫式部 伊勢の大輔 周防内侍 二条院讃岐
View Article隠岐本新古今和歌集合点による原型の推理
原型の推察 後鳥羽院は、隠岐本識語によれば「かずのおおほかるにつけてはうたごとにいうなるにしもあらず。」として二千首の膨大な歌の全てが良いわけでは無く、特に「そのうち、みづからが哥をいれたること三十首にあまれり。」と自分の歌が、「いかでか集のやつれをかへりみざるべき。」と集のやつれを引き起こしていると考えた。 つまり、残したい歌を選んだのではなく、削除したい歌を選んだのである。...
View Article切入歌の推定 明月記五月四日慈円歌5
隠岐本合点とは、承久の変の後、後鳥羽院は隠岐に流され、新古今集の約二千首の内、約四百首を破棄した所謂隠岐本の印であり、棄除した歌、残置した歌に合点があるもの、その両方があるもの、そして残された歌だけのものの四種類がある。 それは、後鳥羽院の嗜好を示している。これは、有る意味竟宴後に切り入れを命じた歌と同じである。...
View Article切入歌の推定 明月記五月四日慈円歌6
4 撰者以外の撰者 新古今和歌集の撰者5人以外に歌を切入、切出したのは勅命した後鳥羽院ではあるが、他にも意見を言える者はいるだろうか。 実は一人だけいる。藤原良経摂政太政大臣である。良経は後鳥羽院より11歳年上で、建久七年の政変で蟄居させられていた所を許され、土御門院の摂政に任じられ、藤氏長者の内覧を取り戻した。良経は叔父の慈円から和歌を習った為、慈円の歌は熟知している。...
View Article俊頼髄脳 一言主
岩橋の夜の契りも絶えぬべし明くるわびしき葛城の神 この歌は、葛城の山、吉野山とのはざまの、はるかなる程をめぐれば、事のわづらひのあれば、役の行者といへる修行者の、この山の峰よりかの吉野山の峰に橋を渡したらば、事のわづらひなく人は通ひなむとて、その所におはする一言主と申す神に祈り申しけるやうは、...
View Article平家物語の中の新古今和歌集 大宰府安楽寺
延慶本平家物語 安樂寺由來事付霊験無雙事 サレバ今ノ平家滅給テ後、文治之比、伊登藤内、補鎭西九國之地頭、下リタリケルニ、其郎從ノ中ニ、一人下郎、無法ニ安樂寺ヘ亂レ入テ御廟ノ梅ヲ切テ、宿所ヘ持行テ薪トス。其男即長死去シヌ。藤内驚テ、御廟ニ詣テヲコタリヲ申。通夜シタリケルニ、御殿ノ内ニケ高キ御音ニテ、 情ナク切人ツラシ春クレバ主ワスレヌヤドノウメガヘ 不思議ナリシ御事也。 新古今和歌集巻第十九...
View Article平家物語の中の新古今和歌集 冤罪
延慶本平家物語 安樂寺由來事付霊験無雙事 此後カクテ露ノ御命、春ノ草葉ニスガリツヽ、イキノ松原ニ日ヲフレバ、山郭公ノ音闌テ、秋ノ半モ過ニケリ。 サテモ九月始ノ比、去年ノ今夜ノ菊ノ宴ニ、清涼殿ニ侍テ、叡感之餘リニ、アヅカリ給シ御衣ヲ取出テヲガミ給トテ、幽思キワマラズ、愁腸タヘナムトシテ、作ラセ給ケル詩トカヤ。 恩賜ノ御衣今在此ニ。捧ゲ持テ終日拝ス餘香。...
View Article元久詩歌合の出題に関する疑問
元久二年六月十五日に披講された元久詩歌合の出題について、明月記を読むの解説の中で田渕句美子氏は明月記四月二十九日の条「可被合詩歌之由被議定。出題歌人可催之由蒙仰退出。」を「出題と歌人の選定は名目上定家に任された。」(同六〇頁中段)とある。 この時居たのは、良経(詩)、慈円(歌)、長兼(詩)、定家(歌)であり、良経が言ったので、決定権は慈円に有る。中将と言う低い身分の定家が決定する事はあり得ない。...
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