巌上松
忠熈
根ざしたる
厳の
まつの深み
どり
これもうごかぬ
世○ためしを
近衛 忠煕
(文化5年(1808年) - 明治31年(1898年))幕末の公卿。公武合体派として活動した。翠山と号す。
安政4年(1857年)、左大臣となるが、将軍継嗣問題で一橋派に属し、戊午の密勅のために献策したため、安政の大獄により失脚し、落飾謹慎する。
文久2年(1862年)に復帰して九条尚忠に代わり関白内覧を務めるが、翌年関白職を辞し、鷹司輔煕が後任となった。東京奠都後、ほとんどの公家が東京に移住した後も京都に居住、孫の篤麿を引き取り養育に専念した。
平成30年5月10日 弐點弐/8
瀟湘八景ツレ