千五百番歌合に
薄く濃き野辺のみどりの若草にあとまで見ゆる雪のむらぎえ
(建仁元年(1201年))
1 はじめに
宮内卿は、源師光の娘で兄弟に泰光、具親がおり、若くして後鳥羽院に使えた。
そして彗星の如く後鳥羽院歌壇に現れ、突然若くして亡くなった。
千五百番歌合に、後鳥羽院から推挙され、出詠し「うすくこき」の歌が評判となり、『若草の宮内卿』と呼ばれた。
彼女の歿年は不詳となっており、正徹物語には、「宮内卿は廿よりうちになくなりしかば」と二十歳前後に亡くなったと伝わっている。今回この問題を考えてみたい。
2 宮内卿の歌壇デビューと当時の評価
宮内卿の歌壇デビューは、正治二年十一月の新宮三首歌合(1200年)と明月記にあり、同時期後鳥羽院後度百首に出詠している。出仕後間もない頃と考えられているが、その若さでいきなり百首歌を後鳥羽院に詠進するというのはその力量を後鳥羽院が見抜いたからであろう。源家長日記によれば、後鳥羽院は歌壇には女流歌人が必要だが、殷富門院大輔、三河内侍など有名な歌人は亡くなっているか現役を退いており、現役女房は歌合に出詠するなどはしたないと考えて出て来ず、人材の不足を嘆いていた。
そして女流歌人として集められたのが、式子内親王、七条院大納言、後鳥羽院下野、俊成女、そして宮内卿である。
二条院讃岐、宜秋門院丹後姉妹や小侍従は、老齢で既に引退し尼となっていたが、歌会などに呼び出されていた。
後鳥羽院の女房として招かれた宮内卿に対する後鳥羽院の期待は大きく、後鳥羽院三度百首、通称千五百番歌合に抜擢された。歌人を30人集め、判定も工夫を凝らした空前絶後の催しだった。その様子は増鏡に詳しく記されており、後鳥羽院は、「こたみは、みな世に許りたる古き道の者どもなり。宮内はまだしかるべけれども、けしうはあらずとみゆめればなん。かまへてまろが面を起こすばかり、よき歌つかうまつれよ」と仰せられ、「面うち赤めて、涙ぐみてさぶらひけるけしき、限りなき好きのほども、あはれにぞ見えける。」と如何に期待が高かったかが分かる。
後に後鳥羽院は隠岐に流されてから、古今百人の歌人を歌合形式に撰んだ時代不同歌合に、宮内卿は和泉式部と番わせ、最後に配置した。つまり最後のトリを飾る巻軸歌として「唐錦秋の形見や」を撰んでいる。
また、藤原定家は、恐らく後鳥羽院に提出した定家十体の中で宮内卿の三首撰んでおり、その鬼拉様の最後に「片枝さすをふのうらなし」を配置している。つまり、これも巻軸歌として選ばれている。
鴨長明は、無名抄「俊成卿女宮内卿兩人歌讀替事」の中で、「今の御代には、俊成卿女と聞ゆる人、宮内卿、この二人ぞ昔に恥じぬ上手共成りける。」と評価したが、彼女の詠歌態度に「此人はあまり歌を深く案じて病に成りて、一度は死に外れしたりき。」とプレッシャーの中での詠歌に病となったと記している。父師光に注意されたが詠歌方法は止めず「終に命もやなくてやみにしは、そのつもりにや有りけん。」と残念がっている。
彼女の作歌活動に決定的に打撃を与えたのは、俊成卿九十賀の歌のミスであろう。
最後の詠歌は、当代の名のある歌人が召された元久元年春日社歌合で、宮内卿は俊成卿女と番い、三番とも両歌が優れていたので持となった。
落葉
八番 左 持 俊成卿女
月ぞもる音はしぐるゝ板間より木の葉ふりしく床のさむしろ
右 女房宮内卿
ちりまがふ紅葉は庭のから錦しきもさだめずふく嵐かな
左の莚、右のから錦、ともにをかしくきこゆ。可為持
暁月
八番 左 持 俊成卿女
袖におく露をたづねし秋の月しもまで残る在明の月
右 宮内卿
これぞこの秋よりかねてまがひこし野原のしもに有明の月
左右共に優也。為持
松風
八番 左 持 俊成卿女
かすが山みねのあらしも君がため松にふくなる万代のこゑ
右 宮内卿
さびしさをわが身ひとつにこたふなりたそがれ時のみねのまつ風
又為持
薄く濃き野辺のみどりの若草にあとまで見ゆる雪のむらぎえ
(建仁元年(1201年))
1 はじめに
宮内卿は、源師光の娘で兄弟に泰光、具親がおり、若くして後鳥羽院に使えた。
そして彗星の如く後鳥羽院歌壇に現れ、突然若くして亡くなった。
千五百番歌合に、後鳥羽院から推挙され、出詠し「うすくこき」の歌が評判となり、『若草の宮内卿』と呼ばれた。
彼女の歿年は不詳となっており、正徹物語には、「宮内卿は廿よりうちになくなりしかば」と二十歳前後に亡くなったと伝わっている。今回この問題を考えてみたい。
2 宮内卿の歌壇デビューと当時の評価
宮内卿の歌壇デビューは、正治二年十一月の新宮三首歌合(1200年)と明月記にあり、同時期後鳥羽院後度百首に出詠している。出仕後間もない頃と考えられているが、その若さでいきなり百首歌を後鳥羽院に詠進するというのはその力量を後鳥羽院が見抜いたからであろう。源家長日記によれば、後鳥羽院は歌壇には女流歌人が必要だが、殷富門院大輔、三河内侍など有名な歌人は亡くなっているか現役を退いており、現役女房は歌合に出詠するなどはしたないと考えて出て来ず、人材の不足を嘆いていた。
そして女流歌人として集められたのが、式子内親王、七条院大納言、後鳥羽院下野、俊成女、そして宮内卿である。
二条院讃岐、宜秋門院丹後姉妹や小侍従は、老齢で既に引退し尼となっていたが、歌会などに呼び出されていた。
後鳥羽院の女房として招かれた宮内卿に対する後鳥羽院の期待は大きく、後鳥羽院三度百首、通称千五百番歌合に抜擢された。歌人を30人集め、判定も工夫を凝らした空前絶後の催しだった。その様子は増鏡に詳しく記されており、後鳥羽院は、「こたみは、みな世に許りたる古き道の者どもなり。宮内はまだしかるべけれども、けしうはあらずとみゆめればなん。かまへてまろが面を起こすばかり、よき歌つかうまつれよ」と仰せられ、「面うち赤めて、涙ぐみてさぶらひけるけしき、限りなき好きのほども、あはれにぞ見えける。」と如何に期待が高かったかが分かる。
後に後鳥羽院は隠岐に流されてから、古今百人の歌人を歌合形式に撰んだ時代不同歌合に、宮内卿は和泉式部と番わせ、最後に配置した。つまり最後のトリを飾る巻軸歌として「唐錦秋の形見や」を撰んでいる。
また、藤原定家は、恐らく後鳥羽院に提出した定家十体の中で宮内卿の三首撰んでおり、その鬼拉様の最後に「片枝さすをふのうらなし」を配置している。つまり、これも巻軸歌として選ばれている。
鴨長明は、無名抄「俊成卿女宮内卿兩人歌讀替事」の中で、「今の御代には、俊成卿女と聞ゆる人、宮内卿、この二人ぞ昔に恥じぬ上手共成りける。」と評価したが、彼女の詠歌態度に「此人はあまり歌を深く案じて病に成りて、一度は死に外れしたりき。」とプレッシャーの中での詠歌に病となったと記している。父師光に注意されたが詠歌方法は止めず「終に命もやなくてやみにしは、そのつもりにや有りけん。」と残念がっている。
彼女の作歌活動に決定的に打撃を与えたのは、俊成卿九十賀の歌のミスであろう。
最後の詠歌は、当代の名のある歌人が召された元久元年春日社歌合で、宮内卿は俊成卿女と番い、三番とも両歌が優れていたので持となった。
落葉
八番 左 持 俊成卿女
月ぞもる音はしぐるゝ板間より木の葉ふりしく床のさむしろ
右 女房宮内卿
ちりまがふ紅葉は庭のから錦しきもさだめずふく嵐かな
左の莚、右のから錦、ともにをかしくきこゆ。可為持
暁月
八番 左 持 俊成卿女
袖におく露をたづねし秋の月しもまで残る在明の月
右 宮内卿
これぞこの秋よりかねてまがひこし野原のしもに有明の月
左右共に優也。為持
松風
八番 左 持 俊成卿女
かすが山みねのあらしも君がため松にふくなる万代のこゑ
右 宮内卿
さびしさをわが身ひとつにこたふなりたそがれ時のみねのまつ風
又為持