江口
三番目物・本鬘物 観阿弥原作、世阿弥改作
西行と江口の遊女妙の歌と性空上人の遊女に普賢菩薩の生身を見た話が元。諸国一見の僧が都から天王寺に参詣に行く途中、江口で西行の歌を口ずさむと里の女が現れ返歌の真意を教え、不審に思うと里の女は江口の遊女の霊だと教え消える。僧が供養をしていると舟
に三人の遊女が乗って現れ、身の儚さ、棹の歌を謡いつつ舟遊びをしながら、六道輪廻の有様を述べ、遊女の罪業の深さを嘆き、無常と執着の罪を説き、舞を舞う。やがて遊女は普賢菩薩に変じ、白象になった舟に乗り西方の空に消える。
ワキ・ワキツレ 月は昔の友ならば、月は昔の友ならば、世のほかいづくならまし。
ワキ 是は諸國一見の僧にて候、我いまだ津の國天王寺に參らず候程に、此たび思ひ立ち天王寺に參らばやと思ひ候。
ワキ・ワキツレ 都をば、まだ夜深きに旅立ちて、まだ夜深きに旅立ちて、淀の川舟行く末は、鵜殿の蘆のほの見えし、松の煙の波寄する、江口の里に着きにけり、江口の里に着きにけり。
ワキ 扨は是なるは江口の君の旧跡かや、痛はしや其身は土中に埋むといへども、名は留まりて今までも、昔語りの旧跡を、今見る事のあはれさよ、實や西行法師此所にて、一夜の宿を借りけるに、主の心なかりしかば、世の中を厭ふまでこそ難からめ、假の宿りを惜しむ君かなと詠じけんも、此所にての事なるべし、あら痛はしや候。
シテ女 なふなふあれなる御僧、今の歌をば何と思ひ寄りて口ずさび給ひ候ぞ
ワキ 不思議やな人家も見えぬ方よりも、女性一人來りつつ、今の詠歌の口ずさびを、いかにと問はせ給ふ事、そも何故に尋ね給ふぞ
女 忘れて年を經し物を、又思ひ染む言の葉の、草の陰野の露の世を、厭ふ迄こそ難からめ、假の宿りを惜しむとの、其言の葉も恥づかしければ、さのみは惜しみ參らせざりし、其理りをも申さむ爲に、是まであらはれ出たる也
ワキ 心得ず、假の宿りを惜しむ君かなと、西行法師が詠ぜし跡を、ただ何となくとぶらふ所に、さのみは惜しまざりにしと、理給ふ御身は扨、いかなる人にてましますぞ
シテ いやさればこそ惜しまぬよしの御返事を、申し歌をば何とてか、詠じもせさせ給はざるらん
ワキ 實其返歌の言の葉は、世を厭ふ
シテ 人とし聞けば假の宿に、心留むなと思ふ計ぞ、心留むなと捨て人を、諫め申せば女の宿りに、泊め參らせぬも理りならずや
ワキ 實理也西行も、假の宿りを捨て人と云
シテ こなたも名に負ふ色好みの、家にはさしも埋れ木の、人知れぬ事のみ多き宿に
ワキ 心留むなと詠じ給ふは
女 捨て人を思ふ心なるを
ワキ ただ惜しむとの
女 言の葉は
同 惜しむこそ、惜しまぬ假の宿なるを、惜しまぬ假の宿なるを、などや惜しむといふ波の、返らぬいしにへは今とても、捨て人
の世語りに、心な留め給ひそ。
地 實や憂き世の物語、聞けば姿も黄昏に、かげろふ人はいかならん
シテ 黄昏に、佇む影はほのぼのと、見え隠れなる川隈に、江口の流れの、君とや見えん恥づかしや
地 扨は疑ひあら磯の、波と消えにし跡なれや
女 假に住こし我宿の
地 梅の立ち枝や見えつらん
シテ 思ひの外に
同 君が來ませるや、一樹の陰にや宿りけん、又は一河の流れの水、汲みても知ろしめされよや、江口の君の幽霊ぞと、聲ばかりして失にけり、聲ばかりして失にけり。
ワキ 扨は江口の君の幽霊假に顕れ、われに言葉を交はしけるぞや、いざとぶらひて浮かべんと。
ワキ・ワキツレ いひもあへねば不思議やな、いひもあへねば不思議やな、月澄みわたる川水に、遊女の歌ふ舟遊び、月に見えたる不思議さよ、月に見えたる不思議さよ。
同 河舟を、泊めて逢瀬の波枕、泊めて逢瀬の波枕、憂き世の夢を身慣はしの、驚かぬ身のはかなさよ、佐用姫が松浦潟、片敷く袖の涙の、唐船の名殘なり、又宇治の橋姫も、訪はんともせぬ人を待つも、身の上とあはれなり。よしや吉野の、よしや吉野の、花も雪も雲も波も、あはれ世に逢はばや。
ワキ 不思議やな月澄み渡る水の面に、遊女のあまた歌う謡、色めきあへる人影は、そも誰人の舟やらん
シテ 何此舟を誰が舟とは、恥づかしながらいにしへの、江口の君の河逍遙の、月の夜舟を御覽ぜよ
ワキ そもや江口の遊女とは、それは去にしいにしへの
シテ いやいにしへとは御覽ぜよ、月は昔に變はらめや
ツレ女 我らもか樣に見え來るを、いにしへ人とは現なや
シテ よし/\何かと宣ふとも
ツレ いはじや聞かじ
シテ 六借や
二人 秋の水、漲り落ちて、去る舟の
シテ 月も影さす、棹の歌、
同 歌へや歌へ泡沫の、あはれ昔の戀しさを、今も遊女の舟遊び、世を渡る一節を、歌ひていざや遊ばん
地 夫十二因縁の流転は車の庭に廻るがごとしシテ 鳥の林に遊ぶに似たり
同 前生又前生
シテ かつて生々の前を知らず
地 来世猶来世、さらに世々の終りを辨ふる事なし
シテ 或ひは人中天上の善果をを受くといへども
同 顛倒迷妄して未解脱の種を植へず
シテ 或ひは三途八難の惡趣に堕して
同 患に碍へられて既に發心の媒を失ふ
シテ 然るに我ら偶々受けがたき人身を受けたりといへども
同 罪業深き身と生れ、殊に例少なき河竹の、流れの女となる、先の世の酬まで、思ひやるこそ悲しけれ
同 紅花の春の朝、紅錦繍の山、粧ひをなすと見えしも、夕べの風に誘はれ、黄葉の秋の夕、黄纐纈の林、色を含むといへども、朝の霜にうつろふ松風蘿月に、言葉を交はす賓客も、去って來る事なし、翠帳紅閨に、枕を並べし妹背も、いつの間にかは隔つらん、をよそ心なき草木、情けある人倫、いづれあはれを免るべき、かくは思ひ知りながら、
シテ ある時は色に染み、貪着の思ひ淺からず
同 又有ときは聲を聞き、愛執の心いと深き、心に思ひ口に言ふ、妄染の縁となる物を、實に皆人は、六塵の境に迷ひ、六根の罪を作る事も、見る事聞事に、迷ふ心なるべし。
地 面白や 【序の舞】
シテ 實相無漏の大海に、五塵六欲の風は吹かねども地 随縁眞如の浪の、立ぬ日もなし、立ぬ日もなし
シテ 波の立ち居も何故ぞ、假なる宿に
シテ 心留むる故
地 心留めずは、憂き世もあらじ
シテ 人をも慕はじ
地 待暮もなく
シテ 別れ路も嵐吹
地 花よ紅葉よ、月雪の古言も、あらよしなや
シテ 思へば假の宿
同 思へば假の宿に、心留むなと人をだに、諫めし我なり、是まで成や歸るとて、則普賢菩薩とあらはれた舟は百象となりつつ、光と共に白妙の、白雲にうち乗て、西の空に行給ふ、ありがたくぞ覺ゆる、有難くこそは覺ゆれ。
巻第十 羇旅歌 978 西行
天王寺へまうでけるに俄に雨の降りければ江口に宿を借りけるにかし侍らざりければよみ侍りける
世の中を厭ふまでこそ難からめ、假の宿りを惜しむ君かな
巻第十 羇旅歌 979 返し 遊女妙
世を厭ふ人とし聞けば假の宿に、心留むなと思ふ計ぞ