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うすくこき 宮内卿の歿年7の2 宮内卿歿年の推定

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8 宮内卿歿年の推定
(3)具親の軽服と最勝四天王院障子和歌
前述の石田氏が、定家の日記明月記を調べた姉弟の軽服期間によると、おおよそ2日で除服している。
これを具親に当てはめようとしても、(1)の通り、明月記が九条良経死去の元久三年一月から四月までの欠落期間を含め、元久二年十月十一日から建永元年六月二十九日までの最大約250日間具親を記録していないなど、2、3日の軽服の記録が欠落してもやむを得ない。
そこで、異なる推計方法として、石田氏が宮内卿の歿年で使用した「宮内卿は、院中における歌歴からいつても、院の御寵愛からいつても」宮内卿を外せない物から調べてみる。
元久二年三月の新古今和歌集竟宴の後、開かれた大規模な歌会は、元久二年六月の元久詩歌合、建永元年七月の卿相侍臣歌合、建永二年三月の賀茂別雷社歌合・鴨御祖社歌合、そして後鳥羽院が最も力を注いだ勅願寺、最勝四天王院の障子を飾る日本四十六の名所を歌った最勝四天王院障子和歌である。
京の白河の地は、白河院が法勝寺を建立してから、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、円勝寺の所謂六勝寺、平忠盛が鳥羽院に寄進した得長寿院など皇族の一大仏教地としていた。平安の院政を継承すると自負を持っている後鳥羽院は、慈円の青蓮院の社領であった現在の三条白河橋付近の場所に勅願寺最勝四天王院の建立を計画した。
その寺院の障子を飾るべく、色紙に名所の絵と歌を書くと言うものである。詳細は定家の明月記に詳しい。
建永二年四月二十日から名所の案を議論し、同月二十三日に意見を述べている。五月五日に奉行を清範が行い、「僧正、新大納言(通光)、源中納言(通具)、有家朝臣、予、家隆朝臣、雅経朝臣、具親、藤原秀能、女房(押小路)。御製を少々加へらるべき由、仰せ事有り」と詠進者が決まった。六月十日に定家は「夜に入り御障子の歌を持参す」と詠進し、九月二十四日に各歌人の二十六所撰ばれ、残りの二十所の相談を受けている。後鳥羽院御口伝によると歌を巡って、後鳥羽院と定家の確執が始まったとある。年号が変わり承元となって十月二十四日には「秀能語りて云ふ、御障子の歌、皆替へられ了んぬ」とあり、かなり不満を定家は明月記に記している。
十一月二十七日開眼供養で障子が披露された。
この詠進者で、女流歌人は俊成卿女(押小路)一人となっており、女流歌人の発掘に力を注いだ後鳥羽院としては、寂しい限りである。この時の俊成卿女の歌について、近藤香氏は、俊成卿女と宮内卿の中で、
里の名を秋に忘れぬ月影に人やは辛き更級の山(新編国歌大観より)
について、「上句の「里の名に秋を忘れぬ月影に」というのはかなり無理をした表現、四句めの「人やは辛き」もやや坐りが悪い措辞というべき」とやや俊成卿女にしてはバランスが悪いとして、「人やは辛き」について、「5年前の「水無瀬殿恋十五首歌合」で宮内卿が詠んだ「絶え果つる人やは辛き心から名さへ恨めし逢坂」の言い回しに刺激を受け、それをこの歌に応用したものと思われる」として、更級、逢坂の名所の名の共通性と「この歌合で宮内卿と番えられたのが他ならぬ俊成卿女の歌」とライバルを一番知っているのがライバルと言う説である。
更に近藤氏はこの本歌取を、「かつてのライバルで、若くしてあっけなく死んでいった宮内卿に対する一種の手向けと言う意味も持っていたのである」と結論付けている。
又、渡邉裕美子は、上記の歌以外で最勝四天王院障子和歌全釈の中で、後鳥羽院の富士山
ふじの山おなじ雪げの雲路よりすそのを分けて夕立ぞする
の本歌として、
深山辺や同じ雪げの空ながら袖のみさゆる古郷の庵(正治後度百首・冬「雪」八四三・宮内卿)
を挙げて、「あたり一帯が雪もよいであるのに或るところだけ別という歌い方は、恐らく宮内卿歌に学ぶものであろう」と関係が深いとして、俊成卿女では、
六月のてる日やうすきふじのねになをきえがたき雪の白雲
の本歌を
水無月の照る日も知らず降る雪にいつもさえたる富士の山かな
とし、「宮内卿歌は、「六月の照る日」と富士を取り合わせた先行例」と述べて関係深いと述べている。
後鳥羽院も宮内卿の死は、ショックだったに違いない。
ところが、元久詩歌合、卿相侍臣歌合、賀茂別雷社歌合・鴨御祖社歌合は、後鳥羽院も俊成卿女も出詠しているが、その様に宮内卿を意識した歌を作っていない。
それを石田氏の「はつきり『不明』とすべきであらうと思ふ。そして不明とした上で、あらためて、そのおおよその歿年を考ふべきであらうと思ふ」と同じ様におおよその歿年を考えると建永二年三月の賀茂別雷社歌合・鴨御祖社歌合から六月の最勝四天王院障子和歌までの間としたい。つまり、石田氏が否定した建永二年五月頃が、別の論点から

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