万葉集巻第五 794
盖聞。
四生起滅方夢皆空三界漂流喩環不息。
所以維摩大士在手方丈有懷染疾之患釋迦能仁坐於雙林無免泥洹之苦。
故知
二聖至極不能拂力負之尋至三千世界誰能逃黑闇之捜來。
二鼠競走而度目之鳥旦飛四蛇争侵而過隙之駒夕走。
嗟乎痛哉。
紅顏共三從長逝素質与四德永滅。
何圖。
偕老違於要期獨飛生於半路。
蘭室屏風徒張斷腸之哀弥痛枕頭明鏡空懸 染筠之涙逾落。
泉門一掩無由再見。
嗚呼哀哉。
愛河波浪已先滅 苦海煩悩亦無結
従来厭離此穢土 本願託生彼浄刹
盖し聞く。四生の起き滅ぶることは、夢の皆空しきが方べ、三界の漂流することは、環りて息まざるに喩ふ。
所以に、維摩大士は、方丈に在りて、染疾の患へを懐ふことあり、釈迦能仁は、双林に坐して、泥洹の苦しびを免れたまふこと無かりきと。
故知る。二聖至極、力負の尋ね至ることを払ふこと能はず、三千世界、誰か能く黒闇の捜り来たるを逃れむといふことを。
二鼠競ひ走りて、度目の鳥は旦に飛び、四蛇争ひ侵して、過隙の駒は夕に走る。
嗟乎、痛きかも。
紅顔は三従とともに長に逝き、素質は四徳とともに永く滅びにき。
何そ図らむ。偕老の要期に違ひ、独飛の半路に生ぜむとは。蘭室の屏風は徒らに張りて、断腸の哀しび弥痛く、枕頭の明鏡は空しく懸かりて、染筠の涙は逾落つ。
泉門一たび掩ひて、再び見るに由なし。
嗚呼哀しきかも。
愛河の波浪は已に先に滅び
苦海に煩悩もまた結ぶことなし。
従来、この穢土を厭離す。
本願、生を彼の浄刹に託けむ
日本挽謌一首 794
大王能 等保乃朝廷等 斯良農比 筑紫國爾 泣子那須
斯多比枳摩斯提 伊企陀爾母 伊摩陀夜周米受 年月母
伊摩他阿良祢婆 許々呂由母 於母波奴阿比陀尓 宇知那毗枳
許夜斯努礼 伊波牟須弊 世武須弊斯良爾 石木乎母
刀比佐氣斯良受 伊弊那良婆 迦多知波阿良牟乎 宇良賣斯企
伊毛乃 美許等能 阿礼乎婆母 伊可尓世与等可 爾保鳥能
布多利那良毗為 加多良比斯 許々呂曽牟企弖 伊弊社可利伊摩須
大王の遠の朝廷としらぬひ筑紫の国に泣く子なす
慕ひ来まして息だにもいまだ休めず年月も
いまだあらねば心ゆも 思はぬ間にうち靡き
臥やしぬれ言はむすべ為むすべ知らに石木をも
問ひ放け知らず家ならば形はあらむを恨めしき
妹の命の在れをばも如何にせよとか 鳰鳥の
二人並び居語らひし心背きて家離り座ます
反歌
795
伊弊爾由伎弖 伊可爾可阿我世武 摩久良豆久 都摩夜左夫斯久 於母保由倍斯母
家に行きて如何にか吾がせむ枕付く妻屋寂(さぶ)しく思ほゆべしも
796
伴之伎与之 加久乃未可良爾 之多比己之 伊毛我己許呂乃 須別毛須別那左
はしきよしかくのみからに慕ひ来し妹が心の術もすべなさ
797
久夜斯可母 可久斯良摩世婆 阿乎爾与斯 久奴知許等其等 美世摩斯母乃乎
悔しかもかく知らませばあをによし国内(くぬち)ことごと見せましものを
798
伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陀飛那久尓
妹が見し楝の花は散りぬべし吾が泣く涙いまだ干なくに
799
大野山 紀利多知和多流 和何那宜久 於伎蘇乃可是爾 紀利多知和多流
大野山霧立ち渡る吾が嘆く沖瀟の風に霧立ち渡る
神龜五年七月廿一日 筑前國守山上憶良上
盖聞。
四生起滅方夢皆空三界漂流喩環不息。
所以維摩大士在手方丈有懷染疾之患釋迦能仁坐於雙林無免泥洹之苦。
故知
二聖至極不能拂力負之尋至三千世界誰能逃黑闇之捜來。
二鼠競走而度目之鳥旦飛四蛇争侵而過隙之駒夕走。
嗟乎痛哉。
紅顏共三從長逝素質与四德永滅。
何圖。
偕老違於要期獨飛生於半路。
蘭室屏風徒張斷腸之哀弥痛枕頭明鏡空懸 染筠之涙逾落。
泉門一掩無由再見。
嗚呼哀哉。
愛河波浪已先滅 苦海煩悩亦無結
従来厭離此穢土 本願託生彼浄刹
盖し聞く。四生の起き滅ぶることは、夢の皆空しきが方べ、三界の漂流することは、環りて息まざるに喩ふ。
所以に、維摩大士は、方丈に在りて、染疾の患へを懐ふことあり、釈迦能仁は、双林に坐して、泥洹の苦しびを免れたまふこと無かりきと。
故知る。二聖至極、力負の尋ね至ることを払ふこと能はず、三千世界、誰か能く黒闇の捜り来たるを逃れむといふことを。
二鼠競ひ走りて、度目の鳥は旦に飛び、四蛇争ひ侵して、過隙の駒は夕に走る。
嗟乎、痛きかも。
紅顔は三従とともに長に逝き、素質は四徳とともに永く滅びにき。
何そ図らむ。偕老の要期に違ひ、独飛の半路に生ぜむとは。蘭室の屏風は徒らに張りて、断腸の哀しび弥痛く、枕頭の明鏡は空しく懸かりて、染筠の涙は逾落つ。
泉門一たび掩ひて、再び見るに由なし。
嗚呼哀しきかも。
愛河の波浪は已に先に滅び
苦海に煩悩もまた結ぶことなし。
従来、この穢土を厭離す。
本願、生を彼の浄刹に託けむ
日本挽謌一首 794
大王能 等保乃朝廷等 斯良農比 筑紫國爾 泣子那須
斯多比枳摩斯提 伊企陀爾母 伊摩陀夜周米受 年月母
伊摩他阿良祢婆 許々呂由母 於母波奴阿比陀尓 宇知那毗枳
許夜斯努礼 伊波牟須弊 世武須弊斯良爾 石木乎母
刀比佐氣斯良受 伊弊那良婆 迦多知波阿良牟乎 宇良賣斯企
伊毛乃 美許等能 阿礼乎婆母 伊可尓世与等可 爾保鳥能
布多利那良毗為 加多良比斯 許々呂曽牟企弖 伊弊社可利伊摩須
大王の遠の朝廷としらぬひ筑紫の国に泣く子なす
慕ひ来まして息だにもいまだ休めず年月も
いまだあらねば心ゆも 思はぬ間にうち靡き
臥やしぬれ言はむすべ為むすべ知らに石木をも
問ひ放け知らず家ならば形はあらむを恨めしき
妹の命の在れをばも如何にせよとか 鳰鳥の
二人並び居語らひし心背きて家離り座ます
反歌
795
伊弊爾由伎弖 伊可爾可阿我世武 摩久良豆久 都摩夜左夫斯久 於母保由倍斯母
家に行きて如何にか吾がせむ枕付く妻屋寂(さぶ)しく思ほゆべしも
796
伴之伎与之 加久乃未可良爾 之多比己之 伊毛我己許呂乃 須別毛須別那左
はしきよしかくのみからに慕ひ来し妹が心の術もすべなさ
797
久夜斯可母 可久斯良摩世婆 阿乎爾与斯 久奴知許等其等 美世摩斯母乃乎
悔しかもかく知らませばあをによし国内(くぬち)ことごと見せましものを
798
伊毛何美斯 阿布知乃波那波 知利奴倍斯 和何那久那美多 伊摩陀飛那久尓
妹が見し楝の花は散りぬべし吾が泣く涙いまだ干なくに
799
大野山 紀利多知和多流 和何那宜久 於伎蘇乃可是爾 紀利多知和多流
大野山霧立ち渡る吾が嘆く沖瀟の風に霧立ち渡る
神龜五年七月廿一日 筑前國守山上憶良上