明月記 建仁二年八月
廿二日天晴る。…略…
一品宮御目の病、此の間忽ちに御平滅。広隆寺より直ちに院の御所におはしますべしと云々。此等の事、皆故あるか。末代の人口、只狂へるが如し。彼の姫宮、日吉に於て人々を咒詛し奉るの由、權門の邊りの人々謳歌し、披露すと云々。近代の生老病死、只悉く咒詛の聞えあり。咒詛にあらざれば、病死の恐れなきの由、人存ずるか。是れ皆業報のみ。
故齋院、八條殿におはしますの間、思ひおはしますに依り属事に付け、此の姫宮并女院を咒詛し奉る。彼の御惡念、女院御病をなすの由、種々雑人狂言す。之に依り、齋院暫く御同宿無し。押小路殿に於て御出家の間、故院猶此の事を以て、御不請。次で、故院の御病最後の間、女院并三位の局、咒詛邪氣の由、二品謳歌するの旨を示す。式法、筆端に盡し難し。次で、齋院春宮を迎へ奉り給ふ。此の故、二品呪詛するの由を示す。
又一品宮、三位中將殿、并其の御妻、近日連連病悩。是れ皆彼の姫宮の咒詛と云々。一事以上無益。悲しむべき世なり。
仰々、仁和寺宮の御病、弟子法親王の方人の呪詛と云々。末代の極みなり。御祈り、偏へに祭の祓なり《仁和寺の法師又之を称すと云々。悲しき哉、悲しき哉。》。
當世の奇特に依りて、年來勝事の一端を記す。猶以て益無し。今夜右大辨着陣。前駈の馬を引き送る。