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Channel: 新古今和歌集の部屋
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方丈記 大原如蓮上人

大原如蓮上人 禅寂 日野長親 文治四年出家 仁治元年(1240年)寂滅

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軒端の梅 吉記

吉記 治承4年4月1日 式子 加茂在憲注申状 寿永2年11月20日 前齋院 上西門院五辻前齋院御所に渡御す 寿永2年11月26日 両宮(亮子・式子内親王) 五辻前齋院御所に参り舗設以下を行う 寿永2年12月17日 三条前齋院 後白河院歳末御懺法八條院に参る。 次予參入八條院、三条前齋院御同宿、入両方見参。久不参之上、元三不可出仕之故也。 文治1年1月3日 前齋院 参院...

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方丈記大福光寺本 親快証之

右一卷鴨長明自筆也 從西南院相傳之 寛元二年(1244年)二月日親快證之 親快 建保3年-建治2年(1276年)5月26日大納言法印 覚洞院法印 源雅親男。醍醐寺覚洞院,地蔵院の院主 建長8年(1256年)頃太秦桂宮院に転院。

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吉記 元暦の大地震 7月9日

元暦二年七月 九日 天晴臨夕陰。午剋大地震。洛中可然之家築垣皆頽。舎屋或顛倒或傾倚。被打襲死去者多聞。永祚之風、貞観之旱、只聞其名。安元回禄猶有先所。於今度地震者無不遇殃人、□□待向後之変異。当時懸ー如之哉。 去月廿日以降已以連々。今日大動以外数十度。萬人消魂者也。 予馳參新熊野、於鳥居他謁人々。当社廻廊顛倒、有被損者二人。然而不終命。其後司天等參上、殊恐申。其中兵亂火急事云々。...

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吉記 元暦の大地震 7月10日

元暦二年七月 十日 雨降。今日依地震事、有軒廊御卜《諸社怪異被加行云々》。上卿源中納言、官寮共卜申神祟之由。但所差之方角相違云々。《官・兼貞(卜部)、兼済(卜部)、兼基(卜部)、有能(大中臣)、寮・宣憲(賀茂)、済憲(賀茂)、業俊(安倍)、宣俊(賀茂)、有□(ママ)、孝重(安倍)等參入云々。》

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軒端の梅 吉記 元暦の大地震 7月12日

吉記 元暦二年七月 十二日 天晴。地震猶有度々。午剋先參最勝光院。北釣殿廊顛倒。同二階廊半倒了。進物所屋又顛倒。其外所々屋以傾危。眼前見滅亡、不堪悲涙。 次參八條院、寝殿已下御所皆悉傾寄。

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軒端の梅 明月記治承四年五月 以仁王宇治合戦

明月記治承四年五月 十七日 夜雨止み、朝天晴る。巷説一ならず。園城寺騒動、關を固め城を構ふと云々。 山上合力の由、其の聞えあり。或は云ふ、虚誕と云々。 廿一日 天晴る。法勝寺に向ふ。前典厩、但馬等、往々三井寺の事を語る。多くは是れ賊軍嗷々の由なり。 廿二日...

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軒端の梅 式子内親王病状

正治元年五月 一日 天晴る。大炊殿女房告げ送りて云ふ、雑熱の事候ふ間、医師等を召すと云々。 十二日 天晴る。巳の時許りに大炊殿に參ず。御肩に雑熱。一日より大黄を止め、膏薬を付けらるるの間、左の御臂の下に、小瘡を見出さる。て又大黄を付けらると云々。此の事に依り、驚きて參ず。女房云ふ、但し、別の事候はずと。…略… 正治元年十二月 四日...

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式子内親王集 山家の道

正治二年後鳥羽院初度百首 287 我が宿は つまきこり行く山賤の しば/\通ふ跡ばかりして 読み:わかやとはつまきこりゆくやまかつのしはしはかよふあとはかりして 風雅集 意訳:私の家はもう木こりがしばしば妻木を苅って通って行く道ができているだけで、誰も訪れる事はない。 屡々と柴の掛詞

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軒端の梅 明月記 後鳥羽天皇譲位

明月記 建久九年正月 七日 天晴る。青侍等説に云ふ。譲位あるべしと云々。辰の時許りに或人告げて云ふ。此條実説なり。來たる九日、大炊殿に行幸。十三日、傳國あるべしと云々。兼定を以て、去る五日に渡りおはしますの由、齋院に於て申さる。仍て、又吉田に渡り給ふと云々。重事卒爾に出でて、掌を反すが如し。 …略…...

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軒端の梅 明月記 正治二年十一月 七条大火

明月記 正治二年十一月 三十日天晴る。風病甚だ不快。午の時許りに、京を出で、日吉に參詣。蓮華王院の邊りに於て、西の方に火を見る。風甚だ猛なり。烟、巽に赴く。須く歸宅すべしと雖も、信心を凝らすに依り、遂に騎馬を以て前途に赴く。車早く持ち歸るべきの由、下知し了んぬ。七條の火なり。壬生大路の程か。關山を送り越すと雖も、其の烟遂に止まず。未の時許りに坂本の宿所に入る。火猶滅せず。…略… 十二月 一日...

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吾妻鏡 長明

建暦元年(1211年)十月十三日 鴨社の氏人菊大夫長明入道《法名蓮胤》、雅經朝臣の擧により、この間、下向す。將軍家に謁し奉ること、度々に及ぶと云々。しかるに今日、幕下將軍の御忌日に当たり、彼の法花堂に參り、念誦し讀經の間、懷舊の涙、頻りに相催す。 一首の和歌を堂の柱に註す。 草モ木モ靡シ秋ノ露消テ空シキ苔ヲ払フ山風

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軒端の梅 明月記 常光院の喧嘩

明月記 正治元年七月...

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軒端の梅 明月記 式子内親王咒詛事件

明月記 建仁二年八月 廿二日天晴る。…略… 一品宮御目の病、此の間忽ちに御平滅。広隆寺より直ちに院の御所におはしますべしと云々。此等の事、皆故あるか。末代の人口、只狂へるが如し。彼の姫宮、日吉に於て人々を咒詛し奉るの由、權門の邊りの人々謳歌し、披露すと云々。近代の生老病死、只悉く咒詛の聞えあり。咒詛にあらざれば、病死の恐れなきの由、人存ずるか。是れ皆業報のみ。...

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歌論 無名抄 仲綱歌詞事

おなじたびの百首に、伊豆守仲綱の哥に「ならはしがほ」などよみたりしをば大貮入道聞て かやうのことばなどよまんひとをば、百千の秀哥よみたりとも、いかヾ哥よみといはん。無下にうたてき事也。 とこそ申されけれ。 是等は皆人に見せあはせぬあやまりどもなり。 ※同じ度の百百首 安元元年右大臣家兼実百首。治承二年の兼実百首とは異なる。 ※仲綱 源頼政男。宇治平等院合戦で戦死。 ※ならはしがお...

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文机談 秘曲尽くし

文机談 さて、有安には、鴨長明と聞へしすき物もならひ伝へり。わづかに、楊真操までうけとりて、のこりはゆるさずしてうせにけり。長明は和哥のみちさへ聞へければ、世上の名人にてぞ侍りける。 …略… 賀茂のおくなる所にて秘曲づくしといふことをぞはじめける。 …略…...

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家長日記 手習

家長日記 すべて、この長明みなし子になりて、社の交じらひもせず、籠り居て侍りしが、歌の事により、北面に參り、やがて、和歌所の寄人になりて後、常の和歌の会に歌參らせなどすれば、まかり出づることもなく、夜昼奉公怠らず。 「手習ひといふ琵琶を持たりし、尋ねよ」と仰せ侍りしかば、大原へ消息して侍りしかば、使につけて參らすとて、撥に書きつけたりし歌、  かくしつつ峰の嵐のおとのみやつひにわが身を離れざるべき...

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古今著聞集 西行法師大峰に入り難行苦行の事

57 西行法師大峰に入り難行苦行の事 西行法師、大峰をとをらんと思ふ志深かりけれども、入道の身にてはつねならぬ事なれば、思煩て過侍けるに、宗南坊僧都行宗、其事を聞て 何かくるしからん。結縁のためにはさのみこそあれ といひければ、悦て思立けり。 かやうに候非人の、山臥の禮法たゝしうして、とをり候はん事は、すべて叶べからず。たゝ何事をもめんじ給ふべきならば、御ともつかまつらん といひければ、宗南坊...

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十訓抄 第八 西行女が死んだ時の西行の態度の事

第八 可堪忍諸事事 四...

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軒端の梅 明月記 妖言事件洛外退去

明月記 建久七年六月 十九日 天晴る。巳の時、大炊殿に參じ、御共して參内す。小時にして九條の御堂に渡りおはします。例講始むるの程に退出す。今夜齋院、密々七條坊門大納言の局舊宅に渡りおはします。其の所なきに依り、戸部然るべき由、申さると云々。…略…

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