下鴨神社(賀茂御祖神社)御手洗池
葵
いとゞよろづいとうくおぼしいられたり。大とのには
御ものゝけめきて、いたくわづらひ給へば、たれも/\おぼし
源
なげくに、御ありきなどびんなきころなれば、二条
院にもとき/"\ぞわたり給。さはいへどやむごとな
きかたは、ことに思ひきこえ給へる人の、めづらしき
ことさへそひ給へる御なやみなれば、心ぐるしうお
ぼしなげきて、みずほうやなにやなど、我御
かたにておほくをこなはせ給。ものゝけいきすた
まなどいふものおほく出きて、さま/"\のなのり
する中に、人にさらにうつらず、たゞ身づからの御
身につとそひたるさまにて、ことにおどろ/\し
うわづらはしきこゆることもなけれど、またかた
ときはなるゝおりもなきものひとつあり。いみじきげ
んざどもにもしたがはず、しうねき気色おぼろ
けの物にあらずとみえたり。大将の君の御かよひと
ころ、こゝかしことおぼしあつるに、このみやす所゛二条
の君などばかりこそは、をしなべてのさまにはおぼした
らざめれば、うらみの心もふかゝらめとさゝめきて、物
などとはせ給へど、さしてきこえあつることもなし。
ものゝけとてもわざとふかき御かたきときこゆ
るもなし。すぎにける御めのとだつ人、もしはおやの
御かたにつけつゝつたはりたるものゝ、よはめにいでき
たるなど、むね/\しからずみだれあらはるゝ。たゞつく
づくとねをのみなき給て、おり/\はむねをせき
あげつゝ、いみじうたへがたきにまどふわざをし給
へば、いかにおはすべきにかと、ゆゝしうかなしうお
ぼしあはてけり。ゐんよりも御とふらひひまな
く、御いのりのことまで、おぼしよらせ給さまのかた
じけなきにつけても、いとゞおしげなる人の御身
なり。世中あまねくおしみきこゆるをきゝ給にも、
みやす所はたゞならずおぼさる。としごろはいとかくし
もあらざりし御いどみ心゛を、はかなかりしところのく
葵
るまあらそひに、人の御心のうごきにけるを、かのと
いとど、万づいと憂くおぼし入られたり。大殿には、御物の怪めきて、い
たく患ひ給へば、誰も誰もおぼし嘆くに、御ありきなど、便無き頃なれば、
二条院にも時々ぞ渡り給ふ。さは言へど、止む事無き方は、異に思ひ聞こ
え給へる人の、珍しき事さへ添ひ給へる御悩みなれば、心苦しうおぼし嘆
きて、御修法(みずほう)や何やなど、我が御方にて、多く行はせ給ふ。物の怪、
生霊(いきすだま)など云ふ物、多く出で来て、樣々の名告りする中に、人
に更に移らず、ただ自らの御身につと添ひたる樣にて、殊におどろおどろ
しう、煩はし聞こゆる事も無けれど、又、片時離るる折りも無き物、一つ
あり。いみじき験者(げんざ)共にも従はず、執念(しうね)き気色、朧
げの物に非ずと見えたり。大将の君の御通ひ所、ここかしことおぼし当つ
るに、「この御息所、二条の君などばかりこそは、をしなべての樣には、
おぼしたらざめれば、恨みの心も深からめ」とささめきて、物など問はせ
給へど、さして聞こえ当つる事も無し。物の怪とても、わざと深き御敵と
聞こゆるも無し。過ぎにける御乳母だつ人、もしは親の御方に付けつつ、
伝はりたる物の、弱目に出で来たるなど、むねむねしからず、乱れ現るる。
ただ、つくづくと音をのみ泣き給ひて、折々は胸をせき上げつつ、いみじ
う堪へ難きに、惑ふわざをし給へば、いかにおはすべきにかと、ゆゆしう
悲しうおぼしあはてけり。
院よりも、御とぶらひ隙無く、御祈りの事まで、おぼし寄らせ給ふ樣の、
かたじけ無きにつけても、いとど惜しげなる人の御身なり。世の中、遍く
惜しみ聞こゆるを聞き給ふにも、御息所は、ただならずおぼさる。年ごろ
は、いとかくしも有らざりし御挑み心を、儚かりし所の車争ひに、人の御
心の動きにけるを、かの殿