焔 上村松園
葵
人もたゆみ給へるに、にはかに御けしきありてなやみ
給へば、いとゞしき御いのりのかずをつくしてせさせ
給へれど、れいのしうねき御ものゝけひとつさらに
うごかず。やんごとなきけんざども、めづらかなり
ともてなやむ。さすがにいみじうてうせられて心ぐ
るしげになきわびて、すこしゆるへ給へや。大将に
きこゆべきことありとの給ふ。さればよ。あるやう
あらんとて、ちかきみき丁のもとにいれ奉りた
り。むげにかぎりのさまにものし給を、きこえを
左大臣 大宮
かまほしきことも、おはするにやとて、おとゞもみやも
すこししぞき給へり。かぢのそうどもこゑしづめ
源
て、ほけきやうをよみたるいみじうたうとし。みきちや
葵
うのかたびらひきあげてみ奉り給へば、いとおかし
げにて、御はらはいみしうたかうてふし給へるさま、よ
そ人だにみたてまつらんに心みだれぬべし。まして
おしうかなしうおぼすことはりなり。しろき御ぞ
にいろあひいとはなやかにて、御ぐしいとながうこ
ちたきを、ひきゆひてうちそへたるも、かうでこそ
らうたげになまめきたるかたそひて、おかしかり
源
けれとみゆ。御手をとらへて、あないみじ。心うきめを
みせ給かなとて、ものもえきこえ給はずなき給へば、
れいはいとわづらはしくはづかしげなる御まみを、
いとたゆげにみあげてうちまもりきこえ給に、なみ
たのこぼるゝさまをみ給ふは、いかゞあはれのあさか
らん。あまりいたくなき給へは、心ぐるしきおやたちの
御ことをおぼし、又かくみ給につけて、くちおしうおほ
源詞
え給にやとおぼして、なにごともいとかうなおぼし
いれそ。さりともけしうはおはせじ。いかなりとも
かならずあふせあなれば、たいめんはありなん。お
左大臣大宮ノ事
とゞ宮なども、ふかきちぎりある中は、めぐり
てもたえざなれば、あひみるほどありなんと
葵詞物のけの◯也
おぼせとなぐさめ給に、いであらずや。身のうへ
のいとくるしきを、しばしやすめ給へときこえん
人もたゆみ給へるに、俄かに御気色ありて、悩み給へば、いとどしき御祈
りの数を尽くして、せさせ給へれど、例の執念(しうね)き御物の怪一つ
更に動かず。止ん事無き験者共、めづらかなりともてなやむ。流石にいみ
じう調せられて、心苦しげに泣きわびて、「少しゆるべ給へや。大将に聞
こゆべき事あり」と宣ふ。「さればよ。あるやうあらん」とて、近き御几
帳のもとに、入れ奉りたり。無碍に限りの樣に、ものし給を、聞こえ置か
まほしき事も、おはするにやとて、大臣も宮も少し退(しぞ)き給へり。
加持の僧共、声鎮めて、法華経を誦みたる、いみじう尊し。御几帳の帷、引
き上げて、見奉り給へば、いとおかしげにて、御腹はいみじう高うて、臥
し給へる樣、よそ人だに見奉らんに、心乱れぬべし。まして惜しう悲しう
おぼす、理りなり。白き御衣に色合ひ、いと華やかにて、御髪いと長うこ
ちたきを、引き結ひて、打ち添へたるも、かうでこそ、らうたげに、生め
きたるかた添ひて、おかしかりけれと見ゆ。御手を捉へて、「あないみじ。
心憂き目を見せ給ふかな」とて、ものもえ聞こえ給はず泣き給へば、例は
いと煩はしく、恥づかしげなる御まみを、いと弛げに見上げて、打ち守り
聞こえ給ふに、涙の零るる樣を見給ふは、いかが哀れの浅からん。
あまりいたく泣き給へば、心苦しき親達の御ことをおぼし、又、かく見給
ふに付けて、口惜しう覚え給ふにやとおぼして、「何事も、いとかうなお
ぼし入れそ。さりともけしうはおはせじ。いかなりとも、必ず逢ふ瀬あな
れば、対面はありなん。大臣、宮なども、深き契りある仲は、巡りても絶
えざなれば、相見る程ありなんとおぼせ」と慰め給ふに、「いで、あらず
や。身の上のいと苦しきを、しばし休め給へと聞こえん