妻沼聖天山斎藤別当実盛公銅像
妻沼聖天山
熊谷市妻沼1511
齋藤實盛 文部省尋常小学校唱歌
年は老ゆとも、しかすがに
弓矢の名をばくたさじと、
白き鬢鬚墨にそめ、
若殿原と競ひつつ、
武勇の誉を末代まで
残しし君の雄雄しさよ。
錦かざりて歸るとの
昔の例ひき出でて、
望の如く乞ひ得つる
赤地錦の直垂を、
故郷のいくさに輝かしし
君が心のやさしさよ。
縁起(妻沼聖天山HPより)
治承3年 斎藤別当実盛公は、武蔵国長井庄に大聖歓喜天を奉り、聖天宮を開いた。これが、妻沼聖天山の始まりである。
実盛公亡き後、長井庄が実盛公の外甥、宮道国平の領地となると、実盛公の次男実長(出家して良応僧都)は兄実途の二人の子を預かり、長井庄に帰る。
平家物語(嵯峨本系)巻第七 実盛の最後
落ち行く勢の中に武蔵国の住人長井斎藤別当実盛は存する旨ありければ赤地の錦の直垂に萌黄威の鎧着て鍬形打つたる甲の緒を締め金作りの太刀を帯き二十四差いたる切斑の矢負ひ滋籐の弓持つて連銭葦毛なる馬に金覆輪の鞍を置いて乗つたりけるが御方の勢は落ち行けどもただ一騎返し合はせ返し合はせ防ぎ戦ふ。木曾殿の方より手塚太郎進み出でてあな優しいかなる人にて渡らせ給へば御方の御勢は皆落ち行き候ふにただ一騎残らせ給ひたるこそ優に覚え候へ名乗らせ給へ名乗らせ給へ と詞をかければ斎藤別当聞いてかう言ふ和殿は誰ぞ信濃国の住人手塚太郎金刺光盛とこそ名乗りたれ。斎藤別当さては汝が為によい敵ぞ。但し和殿下ぐるにはあらず。存ずる旨があれば名乗る事はあるまじいぞ。寄れ組まう手塚とて馳せ並ぶる処に手塚郎等主を討たせじと中に隔たり斎藤別当に押し並べてむずと組む。
実盛あつぱれ己は日本一の剛の者に組んでうずなうれとて我が乗つたりける鞍の前輪に押し付けてちつとも働かさず頭掻き切つて捨ててける。
手塚太郎郎等が討たるるを見て弓手に廻り合ひ鎧の草摺引き上げて二刀刺し弱る処に組んで落す。斎藤別当心は猛う進めども軍にはし疲れぬ手は負うつその上老武者ではあり手塚が下にぞなりにける。
手塚太郎馳せ来たる郎等に首取らせ木曾殿の御前に参つて光盛こそ奇異の曲者組んで討つて参つて候へ。大将かと見候へば続く勢も候はず。侍かと見候へば錦の直垂を着て候ひつるが名乗れ名乗れと責め候ひつれどもつひに名乗り候はず。声は坂東声にて候ひつると申しければ木曾殿あつぱれこれは斎藤別当にてあるごさんなれ。それならば義仲が上野へ越えたりし時幼目に見しかば白髪の霞苧なつしぞ。今は定めて白髪にこそなりぬらんに鬢鬚の黒いこそ怪しけれ。樋口次郎年比馴れ遊んで見知りたるらんぞ。樋口呼べとて召されけり。樋口次郎ただ一目見てあな無慙長井斎藤別当にて候ひけりとて涙をはらはらと流す。
木曾殿それならば今は七十にも余り白髪にもならんずるに鬢鬚の黒いはいかにと宣へば樋口次郎涙を押さへてさ候へばこそそのやうを申し上げんと仕り候ふがあまりにあまりに哀れに覚えて不覚の涙のまづこぼれ候ひけるぞや。されば弓矢取る身は予てより思ひ出の詞をば聊かの所にても遣ひ置くべき事にて候ふなり。実盛常は兼光に逢うて物語りにし候ひしは六十に余つて軍の陣へ赴かば鬢鬚を黒う染めて若やがうと思ふなり。その故は若殿原に争ひて先を駆けんも大人げなし。また老武者とて人の侮らんも口惜しかるべし と申候ひしか。まことに染めて候ひけるぞや。洗はせて御覧候へと申しければ木曾殿さもあるらんとて洗はせて見給へば白髪にこそなりにけれ。
斎藤別当錦の直垂を着たりける事は最後の御暇申すに大臣殿の御前に参つて申しけるは実盛が身一つの事では候はねども先年坂東へ罷り向かつて候ひし時水鳥の羽音に驚いて矢一つだに射ずして駿河国の蒲原より逃げ上つて候ひし事老いの後の恥辱ただこの事候ふ。今度北国へ向かつては討死仕り候ふべし。それにつきて候ひては実盛元は越前国の者にて候ひしが近年御領について武蔵の長井に居住せしめ候ひき。事の譬への候ふぞかし。故郷へは錦を着せて直ぐ帰ると申せばあはれ錦の直垂を御免候ひかし。と申しければ大臣殿優しうも申したるものかなとて錦の直垂を御免ありけるとぞ聞えし。
昔の朱買臣は錦の袂を会稽山に翻し今の斎藤別当はその名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ。
拙句
實盛の白髪を染めやや寒し
(実盛の様に髪を染めて若作りをしても、体力の衰えを感じてしまいます)