Quantcast
Channel: 新古今和歌集の部屋
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4333

唐詩選画本 銅雀台 劉廷琦 蔵書

$
0
0



りうていき劉廷琦

 とうしやくたい  銅雀臺とうたいきうくはんいす銅臺宮觀委くわいしんに灰塵きしゆゑんりやうしよう魏主園陵漳すいのひん水濱そつこんせいほうなを卽今西望猶たへたりおもふに堪思いわんやまたとうじか況復當時歌ふのひと舞人とうしやくたいはせんざいもへたるゆへはいほこりとなりあとかたもなくまつたいらになつた。いするとはうつもれてしもふをいふ。ぎしうのゑんりやうのあたりを見れはしやうすいのほとりにあるかさひしい事じや。いませいぼうして見るにゑいゆうといわれた人のあともなくなるものかなとおもふにたへてめもあてられぬいまのそみ見るにたにたへかたい。いわんやむかしのかぶのきうしよかこのたいのうへよりのそみ見たときいさぞかなしかりつろふ。くわしくは國字解せう故せんちうニ             あり。

 銅雀台  劉廷琦銅台、宮観、灰塵に委(い)す。魏主の園陵、漳水の浜。即今、西望、猶思ふに堪えたり。況んや復た当時歌舞の人をや。
意訳銅雀台や宮殿、楼閣も全て塵や灰になったまま、打ち棄てられ、跡形も無い。ただ、魏の曹操の陵墓だけは、漳水の畔に残っているのみだ。今、鄴から西の方の墓を望んで、往時の栄華を偲ぶにも、悲しい思いで胸が塞がってしまう。ましてやその昔、この台の上で歌舞を演じた宮女達の事を思うと尚更の事だ。

銅雀台 楽府題で、曹操孟徳が魏王に昇爵した時に鄴(ぎょう)(現在の河北省邯鄲市臨漳県三台村)に造営した楼台で、上に銅の雀を飾った。曹操は、毎月1日と15日に宮女に歌舞を演じさせ、子孫に自分の墓を台から望めと遺言した。その後、魏は滅亡し廃墟となって、楽府題として詠まれるようになった。
※委 うち棄てられたまま。
※魏主園陵 曹操の陵墓。
※漳水浜 曹操の墓は漳水の畔にあった。
※西望 曹操の墓は鄴の西方にあった。
唐詩選畫本 七言絶句 巻一

Viewing all articles
Browse latest Browse all 4333

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>