深谷市川本出土文化財管理センター
深谷市菅沼1019
東鑑 巻第九 建久五年七月十九日条
国宝青梅武蔵御嶽神社畠山重忠奉納の赤糸威鎧の模造パネル
宇治川大合戦図
平家物語巻第九
畠山、五百余騎で、やがて渡す。向かへの岸より山田次郎が放つ矢に、畠山馬の額を篦深に射させて、弱れば、川中より弓杖を突いて降り立つたり。岩浪、甲の手先へざつと押し上げけれども、事ともせず、水の底をくぐつて、向かへの岸へぞ着きにける。上がらむとすれば、後ろに者こそむずと控へたれ。「誰そ」と問へば、「重親」と答ふ。「いかに大串か」。「さん候ふ」。大串次郎は畠山には烏帽子子にてぞありける。「あまりに水が速うて、馬は押し流され候ひぬ。力及ばで付きまゐらせて候ふ」と言ひければ、「いつもわ殿原は、重忠がやうなる者にこそ助けられむずれ」と言ふままに、大串を引つ掲げて、岸の上へぞ投げ上げたる。投げ上げられ、ただなほつて、「武蔵の国の住人、大串次郎重親、宇治川の先陣ぞや」とぞ名のつたる。敵も味方もこれを聞いて、一度にどつとぞ笑ひける。
源平盛衰記 巴関東下向事畠山は、九郎義経と院御所に候けるが、木曾漏やしぬらん覚束なしとて、三条河原の西の端まで打出たり。義仲は三条白河を東へ向て引けるを、重忠は本田半沢左右に立歩出し、東へ向て落給は大将と見は僻事か、武蔵国住人秩父の流れ、畠山庄司、次郎重忠也、返合給へや/\と云ければ、木曾馬の鼻を引返し、誰人に合て軍せんより、一の矢をも畠山をこそ射め、恥しき敵ぞ思切と下知して河を阻て射合たり。さすが敵は大勢也、木曾は僅に十三騎、畠山が郎等の放矢は、雨の降が如に飛ければ、わづか小勢堪兼て、三条小河へ引退。重忠勝に乗て責懸ければ、木曾も引返々々、弓箭に成、打物に成、追つ返つ返つ追つ、半時計戦ける。其中に木曾方より、萌黄糸威の鎧に、射残したりける鷹羽征矢負て、滋籐の弓真中取、葦毛馬の太逞きに、少し巴摺たる鞍置て乗たりける武者、一陣に進て戦けるが、射も強切も強、馳合馳合責けるに、指も名たかき畠山、河原へさと引て出。畠山半沢六郎を招て、如何に成清、重忠十七の年、小坪の軍に会初て、度々の戦に合たれども、是程軍立のけはしき事に不合、木曾の内には、今井、樋口、楯、根井、此等こそ四天王と聞しに、是は今井、樋口にもなし、さて何なる者ならんと問ければ、成清、あれは木曾の御乳母に、中三権頭が娘巴と云女也、つよ弓の手だり荒馬乗の上手、乳母子ながら妾にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を不取、今井樋口と兄弟にて怖しき者にて候と申。畠山さてはいかゞ有べき、女に追立られたるも云甲斐なし、又責寄て女と軍せん程に、不覚しては永代の疵、多者共の中に、巴女に合けるこそ不祥なれ、但木曾の妾といへば懐きぞ、重忠今日の得分に、巴に組んで虜にせん、返せ者共とて取て返し、木曾を中に取籠て散々に蒐、畠山は巴に目をぞ懸たりける。進退き廻合ん/\と廻ければ、木曾巴を組せじと蒐阻々々て、二廻三廻が程廻ける処に、畠山、巴強ちに近く廻合。是は得たる便宜と思、馬を早めて馳寄て、巴女が弓手の鎧の袖に取付たり。巴叶じとや思けん、乗たる馬は春風とて、信濃第一の強馬也。一鞭あててあふりたれば、冑の袖ふつと引切て、二段計ぞ延にける。畠山、是は女には非ず、鬼神の振舞にこそ、加様の者に矢一つをも射籠られて、永代の恥を不可残、引に過たる事なしとて、河原を西へ引退き、院御所へぞ帰参ける
一ノ谷鵯越合戦図 国芳