(ウェッブリブログ 2013年07月28日~)
1 はじめに
新古今和歌集には、多くのよみ人知らずの歌があり、それらの撰歌者がどのような方法でその歌を探し出してきたのか、今では不明となっている。
また、神仏の歌とかよみ人知らずではあるが、すくなくとも出所は見当が付くものもある。
よみ人知らずとするには、
①全くの身分が低いもの。ただし、例え身分が低くとも西行法師と歌を交わした遊女妙の樣に、その歌の場面が重要視されている場合は名前を記載されることもある。詞花集の西行や千載集の鴨長明のように、後にはその歌が同人であると判明した物もある。
②万葉集や和漢朗詠集、伊勢物語、寛平御時后歌合、古今和歌六帖、私撰集などそれ自体は有名でありながら、その巻に名前が記載されていなかったもの。その他私歌集の贈答の相手が記載されていなかったもの。私家集の本人の歌は撰歌されず、相手方のみ撰歌された歌もある。
③名前も歌の経緯も知っていながら、勅撰集に名前を載せることができないもの。
がある。
このうち、①について新古今では、身分が低いわけではないが「淺茅生ふる野邊やかるらむ山がつの垣ほの草は色もかはらず」は、その名前が他の文献で醍醐天皇女御と明らかになっているものがある。
②については、「はつ春のはつねの今日の玉菷手にとるからにゆらぐ玉の緒」は万葉集歌で大伴家持の作と分かっているが、よみ人知らずで撰歌された。これは古今六帖から撰歌したためと考えられる。
また、③においては、平家一門の歌人は、千載集では、よみ人知らずとして経正、行盛、そして有名な忠度がいる。後の新勅撰では、藤原定家によって、三代過ぎたので名前を記しても構わないということで行盛の歌が撰歌されている。
新古今においても平家の歌が一首も入っていないということは、言えないのかも知れない。
また、変わったものでは、本当の作者は勅命した後鳥羽院。当初赤人の歌を撰歌したが、後撰集よみ人知らずの歌とわかり、仮名序に掲げた歌であったので、定家の提案により院の本歌取りの歌をよみ人知らずとしたもの。
そこで、これらの読み人知らずについて、中身を検証してみたいと思う。
2 新古今和歌集のよみ人知らず
新古今和歌集には、切出歌を含めて95首ある。重複含めてると、
万葉集 18首(うち、古今和歌六帖8首、伊勢物語1首)
伊勢物語 11首(うち、六帖2首、六帖・和漢2首、万葉集1首)
古今和歌六帖 21首(うち、伊勢2首、伊勢・和漢1首、和漢集1首、万葉8首)
和漢朗詠集 5首(うち、六帖1、伊勢・六帖1)
寛平御時后歌合 4首
栄花物語 12首
3 内藤朝親
吾妻鏡に、
元久二年九月大二日乙酉 内藤兵衛衞朝親自京都下着、持參新古今和歌集。是通具、有家、定家、家隆、雅經等朝臣奉勅定、於和歌所。去三月十六日撰進之。同四月奏覽。未被行竟宴。又無披露之儀。
而將軍家令好和語給之上、故右大將軍御詠被撰入之由就聞食、頻雖有御覽之志。態不及被尋申。
而朝親適屬定家朝臣嗜當道。即列此集作者讀人不知之間、廻計略可書進之由、被仰含之處。依朝雅、重忠等事、都鄙不靜之故、于今遲引云々。
と内藤朝親が、出来て間もない新古今和歌集を実朝に京都から持参した旨が記載されている。
竟宴も開かれておらず、披露もされていないというのは、内藤朝親の嘘で、元久二年三月二十六日竟宴が開かれ、遅ればせながら九条良経の仮名序も出来上がっている。つまり、披露もされていない貴重なものを、計略により書き写し、入手したとアピールしたに過ぎない。
実朝は、和歌に興味があり、父頼朝の歌が入撰されていると聞いていたので、是非読みたいと思っていたが、特に持ってくるようには言わなかったが、朝親が持参してとても喜んだのだろう。
ここで、注目すべき点は、朝親は定家の歌の弟子となっていること。よみ人知らずで入撰していることである。竟宴も開かれていないという嘘を言うような男であるが、流石にそこまで嘘を付く必要も少ないと思う。
2で述べたよみ人知らずのうち、出典も不明な歌は20首ある。
新古今和歌集の写本には撰者名が記載されているものもあり、定家が撰んだものは、そのうち、春歌上、夏歌、離別歌2首、離別歌、戀歌二、戀歌四、戀歌五2首、雜歌上の11首である。
このうち離別と雑は明らかに違うので、9首。
この中でもっとも朝親と思しきものは、
離別歌 俄に都をはなれて遠く罷りけるに女に遣はしける
契り置くことこそ更になかりしかかねて思ひし別ならねば
と鎌倉と京都を行き来した朝親らしい歌といえる。
なお、撰者には家隆も加わっており、一人定家だけ頼んだ訳ではなく、家隆にもアプローチを掛けたものと推察する。
同じ歌を撰んだと知った時は、両者とも苦笑いしたのであろう。賄賂をもらったので。
4 平家一門
平家のうち平経正、平経盛、平忠度をその歌集から歌の特徴を見て、新古今の撰歌の可能性を推察してみる。
なお、あくまでも可能性を推察しただけであり、確実なものである訳ではないことを申し添える。
(1)平経正
平経正は、経盛の子で、仁和寺の覚性法親王に育てられ、琵琶の名手で平家物語の経正都落では、守覚法親王に琵琶の名器青山をお返しする話が語られている。一ノ谷の合戦で戦死。
経正の歌の特徴としては、歌枕などの地名を多用している。経正集のうちの地名として、
須磨明石、与謝浦、塩竈の浦、吉野山、龍田川、玉川、葉山が原、化野、朝原、おがや原、伏見、初瀬山、信楽里、たなかみ、長太ノ浦、真野入江、難波潟、あさはの野良、宇喜田杜、和歌浦、小塩山、三島、住吉で、31/119首となっている。
冬寒み真木の葉白く霜冴えて朝さびしかる信楽の里
なお、平家物語(源平盛衰記)で都落ちの際、仁和寺の宮に青山という琵琶を返す場面があり、そこには、経正の詠と伝えられる歌が残っている。
経正 呉竹のもとの筧はかはらねどなほ住あかぬ宮の内かな
仁和寺の宮 呉竹の本の筧は絶はててながるゝ水のすゑをしらばや
大蔵卿法印 夏山の出入月の姿をばいつか雲井に又も見るべき
経正 夏山の緑の色はかはるとも出入月を思ひわするな
侍従律師行経 哀なり老木若木も山ざくらおくれ先立花も残らじ
経正 旅衣夜な/\袖をかた敷て思へば遠く我は行なん
新古今の読み人知らずの中で、地名の歌は、雑歌上の切り出し歌(異本 伝飛鳥井雅康書写大泰本他転写本掲載歌)
とほくなり近く鳴海の浜千鳥なく音に潮の満ち干をぞ知る
がある。
なお、この歌は、戦国時代の猪苗代兼載が著した「兼載雑談」に暁月法師為守の歌とあるが、冷泉為守は新古今和歌集の時代の遙か後の時代となるので、兼載の勘違いである。
(2)平忠度
平忠度は、忠盛の子で清盛の異母弟に当たる。和歌に秀でて、平家物語の藤原俊成との別れの「忠度の都落ち」と一ノ谷の合戦の「忠度の最後」は、つとに有名。
千載集の読み人知らずの
故郷花
さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな
と岡部忠澄に首を跳ねられた後、箙(えびら)に付けていた歌を見付けて忠度だと分かった、
旅宿花
行き暮れてこの下蔭を宿とせば花や今宵の主ならまし
忠度集から、忠度の歌の特徴として上げられるものとして推量の助動詞「らむ(らん)」、「けむ(けん)」、「せむ(ん)」、「まし」の多用である。
忠度集103首、上記の平家物語1首のうち35首が推量を使用している。
その分体言止めは、17首にとどまる。
なづさひし昔に非ず経りぬるを知らぬ翁と花や見るらむ
ありし世は思はざりけむ書き置きてこれを形見と人偲べとは
推量によって歌に余韻を持たせるのが好みだったのであろう。
しかし、新古今の読み人知らずの歌の中で、推量の助動詞を使っているものは無い。
(3)平経盛
平経盛は、忠盛の三男で忠盛からは和歌の才能を受け継いだとされる。自らも歌合(平経盛歌合 仁安2年(1167年) を行うなど和歌に力を入れていた。
経盛集に歌の特徴はあまり見られないが、よみ人知らずに題があり、どこかの本を写した事が分かるが、誰が歌ったのかが全く不明なものがある。
第十二 戀歌二 戀歌とてよめる
忍びあまり落つる涙をせきかへし抑ふる袖ようき名もらすな
これは定家と家隆が撰者となっており、二人が別々に集めた歌となり、また隠岐本でも削られることは無かった。
枕よりまた知る人もなき恋を涙せきあへずもらしつるかな(古今 平貞文)を本歌取りしている。
本歌取りの技法を使いつつ、「…よ…もらすな」と恋歌には珍しい力強さがあり、武士の歌ではないかと思われる。
題があるのによみ人知らずであり、力強さから経盛の詠ではないかと思われる。
ただし、これは、全く確証がないものである。
参考文献
時代別作者別 新古今和歌集
参考