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追加
(1)鴨長明集
鴨長明集の後人の追加に
鴨長明集
養和元年五月 日鴨長明
いまはたゝ(イよりは)しでの山路ぞいそがるゝせめては(さきだつイ)親のあとやふむとて
遁世の時よめる。かくて山城日野法泉寺といふところに方丈をつくりてすめり。びはの三曲を常にひける石あり。三曲石といひてあり。方丈の記とて一帖あり。一丈四方なる所なればをきどころなくてしけると也。
と日野の遁世後の歌として記録されている。しかし、日野法泉寺と言う寺は確認されていない。法界寺の誤記と考えるのが妥当であろう。
ここで着目したいのが、「びはの三曲を常にひける石あり。三曲石」と琵琶(琴)を引いていたという記述である。前述の琴引山とは、平重衡妻大納言典侍が弾いた所となっているが、平家物語に記載がない以上、長明が弾いていた場所と考えても良くなる。
この三曲とは、琵琶の秘曲として方丈記にも記述がある流泉、秘曲づくしで披露したとされる啄木、同じく秘曲の楊真操か箏曲ではあるが方丈記記載の松風楽であろう。
日野付近の山の中には、腰掛けるくらいの石は多数あって、どれが三曲石かと分からないが、方丈の庵の場所には腰掛けるくらいの石があるということになる。
(2)方丈記古注
江戸時代の元禄七年仲春刊の摂陽散人著「方丈記諺解」に
宇治より大津街道六地蔵より五六町東有一言観音堂より右の方へ上りて又少し下りセバキ谷あいのおちくぼなる所の右の上に方丈をたてられしとなん。今に岩は残りてよんで長明石といわるゝ則此所を外山といへり。
とある。
とある。これを基に推計すると
六地蔵より一言観音堂は、直線距離で2.7km、道沿いに徒歩となると3km程度となる。諺解によると「六地蔵より五六町東」とあるが、1町が109m程度とすると546mから654mとなってしまう。
京阪六地蔵駅周辺の山科川に「だいご一言寺是より十七丁」の道標がある。(写真)
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これによると1.8kmとやや短くなり、日野法界寺の1.9km手前附近となる。
これらのことから、諺解の記載は廿が欠落して、廿五六町(2.75k~2.9km)が正しい事が考えられる。
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京都市伏見区一言寺
次に「一言観音堂より右の方へ上りて又少し下り、セバキ谷あいのおちくぼ」とあり、一言寺より右の方を登ると、史跡醍醐寺境内栢杜遺跡となる。碑文によると、源 師行(? - 1172年)の八角円堂や重源(1121~1206念)の栢杜堂九体丈六堂を造立したとあり、建立してから年数がそれほど経っていないことから、長明が日野に住居を構えた頃にもあったと考えられる。重源は、法然の弟子でもあり、西行に奥羽への砂金勧進を依頼するなど西行とも親しく、浄土宗弾圧の際、長明が逃げ込んだ寺と考えられなくもない。
その少し登ったところから六地蔵方面をみると、遠く槇島がみえていたのだろう。
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栢杜遺跡の空き地より六地蔵方面
それより登ったところに小川が流れており、すこし窪んだところの上流に庵を結ぶくらいのスペースがあった。
この醍醐端山を外山とした場合、後醍醐天皇が四宮から方丈の庵の山を見たとされる記述にも合致する。
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一言寺東南の小川
以上のことから、この諺解が示した方丈記の庵跡と推計される場所を候補地六とする。