富士川の流れに關する一考察 伊藤只人
静岡県郷土研究第6輯
昭和11年3月31日
前半略
廿七日(建治三年十月)あけはなれてのち、ふじ河わたる。あさ川いとさむし。かぞふれば十五せをぞわたりける。
冴えわびぬ雪よりおろすふじ河の
川風こほる冬の衣手
けふは日いとうらゝかにて、だごの浦にうちいづ。云々。」
右は十六夜日記中の富士川に關する一節である。さて問題とするところは、「數ふれば十五瀬をぞ渉りける」なる文字である。富士川は當時廣くながれてゐて、阿佛尼の生存中の鎌倉時代には瀬は十五もあつた程である。故に富士川は吉原の處を流れてゐたとする。然し此の説も甚だ漠然たるものであり、且つ矛盾を含むものである。表面的に此の記事を右の如く解するならば、駿河記に云ふ「枝流ハ幾條トナク、廣キ川原ニ縦横ニ流レヒロゴリシト云フ。云々。」の説に合致するものゝ樣である。然し此の記事と源平二氏の對陣の時の場合とを詳しく考へ合せると、種々撞着のあるのを見るのである。即ち當時富士川は十五瀬に分れてゐた程の廣さであつたにしても、その廣さは吉原町の平家越の碑のあるところを西岸として、その東に河幅が廣まつてゐなければならぬのである。と云ふのは源平二氏の對陣の折は、平氏は富士川の西岸にあつたので、富士川を渡つて東岸迄攻め來つたとは思はれないからである。即ち富士川および平氏の陣の東前面に流れてゐた故、平家越は當時の富士川の西岸の地でなければならぬことゝなるのである。かくして富士川の西岸は今の吉原町の北東(平家越の碑のあるところ)にあつて、そこより東面に富士川は十五瀬をもつ程廣がつてゐたことになる。さて十六夜日記を更らに讀みつゞけて行くと、富士川の十五瀬を渡つてしまつてから「今日はいとうらゝかにて、たごの浦にうちいづ」とあるところに依つて、田子の浦は富士川の東岸に存在したことを意味するのを知り得るであろう。故に若し前者に解すれば、田子の浦は今の吉原町を西岸として十五瀬をもつ程の廣を東に展開して流れてゐた富士川の東岸より、更らに之の東の海岸でなければならぬ。すると今の地圖にて云へば一歩ゆづつて(と云ふのは東岸がどれ程廣かつたか分からぬ故)西岸から見たとしても、鈴川驛より東のみを田子の浦と稱さなければならぬのである。そんな馬鹿げたことのあり得ないことは云ふ迄もないことである。
さて次に富士川は中に十五瀬を抱合して川幅廣く流れ、其東岸が吉原の附近にあつたと解するならば、やはり田子の浦は今の鈴川驛邊より沼津に至る東海岸當ることとなり、且つ平家越は河の東岸になる故平家は川を越して東岸に迄達したことゝなり、かくしては平家物語や吾妻鏡に云ふ源平二氏は河をはさんで東と西に對陣したとの記事に悖ることなつて來るのである。故に十六夜日記の記事は當時の富士川の河幅の廣かつたことを示しては居るが、吉原の近所を流れてゐたことを示すものではないので、むしろ富士川を渡つて田子の浦についたことからみれば、當時の田子の浦はやはり現今稱へられてゐる田子の浦の地域と等しく、吾妻鏡によつて富士川は今の富士町と蒲原との間を流れてゐたとする記事を裏書することになつて來るのであある。(以上地圖を參照しつゝ讀まれたし)
以上に依つて鎌倉時代には決して富士川は吉原の方へ東折して流れたものではなく、却つて現今の流れと略一致することを知るのである。
※鈴川驛 昭和31年まであった駅で、改名され今の吉原駅。
ふじ 見たい知りたいわたしたちのまち 令和4年度版 (富士市教育委員会より)
富士市史 第二節 富士川扇状地と田子の浦砂丘より