「奈良・吉野〜なぜ桜といえば吉野なのか?〜」 - ブラタモリ
今回の舞台は吉野。桜の季節にはおよそ40万人が訪れる言わずと知れた花の名所はどう生まれたのか?タモリさんがブラブラ歩いて解き明かす▽一目千本!山全体が桜一色に!...
新古今和歌集 春歌上花歌とてよみ侍りける吉野山去年のしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねむ 異聞御山家集落花の歌あまたよみけるにこのもとに旅寝をすれはよしの山花の衾を着する春風異本山家集
勅撰集には撰歌されておらず、後世の吉野の桜を代表する歌とするには無理が有る。
新古今和歌集 雑歌下 切出歌題しらず ねがはくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ 山異御心
ただし、ブラタモリでは、この歌を、西行の死ぬ前年で、吉野での歌と説明したが、御裳濯河歌合に有り、この説明でもいい加減なものとなっている。又、旧暦の二月十五日に、吉野で桜は咲かない。
御裳濯河歌合伊勢の内宮に奉納した西行の自歌合。成立は奥州から帰った1187年(文治3)ころか。西行が自己の秀歌72首を選び,左方を山家客人,右方を野径亭主として36番の歌合に構成し,藤原俊成に判を依頼したもの。同じく西行の自歌合《宮河歌合》(定家判)と一体のものであるが,後世自歌合の最初と言われている。自選歌を通して西行の和歌評価基準を知ることができ,俊成の率直な判詞とともに貴重な資料である。【竹下 豊】