
源氏物語 少女
大殿には、今年、五節たてまつりたまふ。何ばかりの御いそぎならねど、童女の装束など、近うなりぬとて、急ぎせさせ給ふ。 東の院には、参りの夜の人びとの装束せさせ給ふ。殿には、大方の事共、中宮よりも、童、下仕への料など、えならで奉れ給へり。 過ぎにし年、五節など止まれりしが、さうざうしかりし積もり取り添へ、上人の心地も、常よりもはなやかに思ふべかめる年なれば、所々挑みて、いといみじくよろづを尽くしたまふ聞こえあり。 按察使大納言、左衛門督、上の五節には、良清、今は近江守にて左中弁なるなむ、奉りける。皆止めさせ給ひて、宮仕へすべく、仰せ言ことなる年なれば、女をおのおの奉り給ふ。 殿の舞姫は、惟光朝臣の、津守にて左京大夫かけたるが女、容貌などいとをかしげなる聞こえあるを召す。からいことに思ひたれど、 「大納言の、外腹の女をたてまつらるなるに、朝臣のいつき女出だし立てたらむ、何の恥かあるべき」 と苛めば、わびて、同じくは宮仕へやがてせさすべく思ひおきてたり。 舞習はしなどは、里にていとよう仕立てて、かしづきなど、親しう身に添ふべきは、いみじう選り整へて、その日の夕づけて参らせたり。 殿にも、御方々の童女、下仕へのすぐれたるをと、御覧じ比べ、選り出でらるる心地どもは、程々につけて、いとおもだたしげなり。 御前に召して御覧ぜむうちならしに、御前を渡らせてと定めたまふ。捨つべうもあらず、とりどりなる童女の樣体、容貌を思しわづらひて、 「今一所の料を、これより奉らばや」 など笑ひ給ふ。ただもてなし用意によりてぞ選びに入りける。
大学の君、胸のみふたがりて、物なども見入れられず、屈じいたくて、書も読まで眺め臥し給へるを、心もや慰むと立ち出でて、紛れありき給ふ。 さま、容貌はめでたくをかしげにて、静やかになまめいたまへれば、若き女房などは、いとをかしと見奉る。 上の御方には、御簾の前にだに、もの近うももてなしたまはず。わが御心ならひ、いかに思すにかありけむ、疎々しければ、御達なども気遠きを、今日はものの紛れに、入り立ち給へるなめり。 舞姫かしづき下ろして、妻戸の間に屏風など立てて、かりそめのしつらひなるに、やをら寄りてのぞきたまへば、悩ましげにて添ひ臥したり。 ただ、かの人の御ほどと見えて、今すこしそびやかに、樣体などのことさらび、をかしきところはまさりてさへ見ゆ。暗ければ、こまかには見えねど、ほどのいとよく思ひ出でらるるさまに、心移るとはなけれど、ただにもあらで、衣の裾を引き鳴らいたまふに、何心もなく、あやしと思ふに、 天にます豊岡姫の宮人もわが心ざすしめを忘るな 「乙女子が袖振る山の瑞垣の」 と宣ふぞ、うちつけなりける。 若うをかしき聲なれど、誰ともえ思ひたどられず、なまむつかしきに、化粧じ添ふとて、騷ぎつる後見ども、近う寄りて人騒がしうなれば、いと口惜しうて、立ち去り給ひぬ。

五節の舞姫(藤典侍 藤原惟光女?) 源氏 五節の舞姫(源良清女?) 藤原惟光?
土佐光成 (正保三年(1647年) - 宝永七年(1710年)) 江戸時代初期から中期にかけて活躍した土佐派の絵師。官位は従五位下・形部権大輔。 土佐派を再興した土佐光起の長男として京都に生まれる。幼名は藤満丸。父から絵の手ほどきを受ける。延宝九年(1681年)に跡を継いで絵所預となり、正六位下・左近将監に叙任される。禁裏への御月扇の調進が三代に渡って途絶していたが、元禄五年(1692年)東山天皇の代に復活し毎月宮中へ扇を献ずるなど、内裏と仙洞御所の絵事御用を務めた。元禄九年(1696年)五月に従五位下、翌月に形部権大輔に叙任された後、息子・土佐光祐(光高)に絵所預を譲り、出家して常山と号したという。弟に、同じく土佐派の土佐光親がいる。 画風は父・光起に似ており、光起の作り上げた土佐派様式を形式的に整理を進めている。『古画備考』では「光起と甲乙なき程」と評された。 27cm×44.5cm 令和5年11月5日 九點貳伍/肆