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源氏物語 初音 姫君の御方に渡りたまへれば、童女、下仕へなど、御前の山の小松引き遊ぶ。若き人びとの心地ども、置き所なく見ゆ。北の御殿より、わざとがましくし集めたる鬚籠ども、破籠などたてまつれたまへり。えならぬ五葉の枝に移る鴬も、思ふ心あらむかし。 年月を松にひかれて経る人に今日鴬の初音聞かせよ 「音せぬ里の」 と聞こえ給へるを、「げに、あはれ」と思し知る。言忌もえしあへ給はぬ気色なり。 「この御返りは、みづから聞こえ給へ。初音惜しみ給ふべき方にもあらずかし」 とて、御硯取りまかなひ、書かせ奉り給ふ。いと美しげにて、明け暮れ見奉る人だに、飽かず思ひきこゆる御有樣を、今までおぼつかなき年月の隔たりにけるも、「罪得がましう、心苦し」と思す。 ひき別れ年は経れども鴬の巣立ちし松の根を忘れめや 幼き御心にまかせて、くだくだしくぞあめる
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源氏
明石の姫君 夕霧? 童女 土佐光成 (正保三年(1647年) - 宝永七年(1710年)) 江戸時代初期から中期にかけて活躍した土佐派の絵師。官位は従五位下・形部権大輔。 土佐派を再興した土佐光起の長男として京都に生まれる。幼名は藤満丸。父から絵の手ほどきを受ける。延宝九年(1681年)に跡を継いで絵所預となり、正六位下・左近将監に叙任される。禁裏への御月扇の調進が三代に渡って途絶していたが、元禄五年(1692年)東山天皇の代に復活し毎月宮中へ扇を献ずるなど、内裏と仙洞御所の絵事御用を務めた。元禄九年(1696年)五月に従五位下、翌月に形部権大輔に叙任された後、息子・土佐光祐(光高)に絵所預を譲り、出家して常山と号したという。弟に、同じく土佐派の土佐光親がいる。 画風は父・光起に似ており、光起の作り上げた土佐派様式を形式的に整理を進めている。『古画備考』では「光起と甲乙なき程」と評された。 27cm×44cm 令和5年11月5日 九點貳伍/肆