ほれてさぶらふに、奉りかへよとて、あはせの小袖に、じゃうゑを そへて出されたり。中将これをきがへつゝ、もとき給ひたるしやう ぞくをば、是をかたみに、御らんぜよとて奉り給へば、北のかた それもさる御事にてはさぶらへ共、はかなき筆のあと社、 後の世までの、かたみにてさぶらへとて、御すゞりを出され たり。中将なく/\一しゆの哥をぞかき給ふ。 せきかねて涙のかゝるから衣後のかたみにぬぎぞかへぬる 北のかたの返事に ぬぎかふる衣も今はいかゞせんけふをかぎりのかたみと思へば ちぎりあらば、後の世にはかならず、むまれあひ奉るべし一つ はちすにといのり給へ。日もたけぬ。ならへもとをふ候へば、ぶし 共のまつらんも、心なしとて出られければ、北のかた中将殿の、 たもとにすがり、いかにやしばしとて、引とゞめ給へば、中将心の中 をば、たゞをしはかり給ふべし。され共つゐには、ながらへはつべき身 にもあらずとて、思ひきりてぞたゝれける。まことに此世にて あひみん事も、是ぞ限りと思はれければ今一度立かへりたくは おもはれけれ共、心よはふてはかなはじとて思ひきつてぞ、出られ ける。北のかたはみすのほかまでころび、出おめきさけび給ひけ る、御こゑのかどの外まではるかに聞えければ、中将なみだに こま くれてゆくさきもみえねば駒をもさらにはやめ給へず、なく /\なりけるげんざんかなと、今はくやしうぞ思はれける。北の かたやがてはしり出て、おはしぬべうは思はれけれ共、それもさす がなればとて、引きかづいてぞふし給ふ。さる程になんとの大衆、三位 の中将こひとり奉て、いかゞすべきとせんぎす。抑此しげひらの卿は 大ぼんのあく人たるうへ、三千五かいの中にももれしゆゐんかんくわ のだうりごくじやうせり。仏てき法てきのぎやくしんなれば すべからく東大寺興福寺、両寺の大がきをめぐらして、ほ りくびにやすべき。又のごぎりにてやきるべきと、せんぎす。らう そう共のせんぎしたるは、それもそうとの法にをんびんな らず。たゞぶしにたふで、木津の邊にてきらすべしとて、つゐ
平家物語巻第十二
一 重衡のきられの事 (萎)れて候ふに、 「奉り替へよ」とて、合はせの小袖に、浄衣を添へて出されたり。中将これを着替へつつ、もと着給ひたる装束をば、 「是を形見に、御覧ぜよ」とて奉り給へば、北の方、 「それもさる御事にては候へども、儚き筆のあとこそ、後の世までの、形見にて候へ」とて、御硯を出されたり。中将、泣く泣く一首の歌をぞ書き給ふ。
せきかねて涙の掛かる唐衣後の形見に脱ぎぞ替へぬる
北の方の返事に
脱ぎ替ふる衣も今はいかがせん今日を限りの形見と思へば 「契りあらば、後の世には必ず、生まれ逢ひ奉るべし。一つ蓮にと祈り給へ。日もたけぬ。奈良へも遠ふ候へば、武士どもの待つらんも、心無し」とて出られければ、北の方、中将殿の袂にすがり、 「いかにや、暫し」とて、引き留め給へば、中将、 「心の中をば、ただ推し量り給ふべし。されども終には、長らへ果つべき身にもあらず」とて、思ひきりてぞ立たれける。真にこの世にて逢ひ見ん事も、是ぞ限りと思はれければ、今一度立ち返りたくは思はれけれども、心弱ふては叶はじとて思ひ切つてぞ、出られける。 北の方は御簾の外まで転び出、おめき叫び給ひける、御声の門の外まで遥かに聞えければ、中将涙に暮れて、行く先も見えねば、駒をも更に早め給へず、泣く泣くなりける見參かなと、今は悔しうぞ思はれける。北の方、やがて走り出て、おはしぬべうは思はれけれども、それも流石なればとて、引きかづいてぞ臥し給ふ。 さる程に、南都の大衆、三位の中将請ひ捕り奉て、いかがすべきと僉議す。そもそもこの重衡の卿は大犯の悪人たる上、三千五戒の中にも洩れ、修因感果の道理極上せり。仏敵法敵の逆臣なれば、すべからく東大寺、興福寺、両寺の大垣を巡らして、堀頸にやすべき。又鋸にてや切るべきと、僉議す。老僧どもの僉議したるは、それも僧徒の法に穏便ならず。ただ武士にたふで、木津の辺にて切らすべしとて、遂
※武士にたふ 武士に給ふの音便