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五 判官都落ちの事 日の日、九郎大夫の判官、院參ざんして、大蔵卿泰經の朝臣を以て、奏聞せられけるは、 「頼朝郎党どもが讒言によつて、義經討たんと仕り候。宇治・瀬田の橋をも引き、ふ防がばやとは存じ候らへども、京都の騒ぎどもなりて、中々あしう候なんず。一、先づ鎮西の方へも、落ち行かばやと存じ候。哀れ院の庁の御下文を給はつて、罷り下り候らばや」と、申されたりければ、法皇、 「この事、いかがあらんずらん」と、思し召し煩はせ給ひて、諸卿に給はせあはせらる。諸卿、申されけるは、 「義經、都に候なば、東国の大勢乱れ入りて、京都の騒動耐へまじう候。暫く、鎮西の方へも、落ち行き候はば、その恐れ有りまじう候」と申されたりけば、 「さらば」とて鎮西の者ども、緒方の三郎維義を始めとして、臼杵、戸次(べつ
き)の松浦党に至るまで皆、義經が下知に従ふべき由の、院の庁の、御下文を給はつて、明くる三日の卯の刻に、都に些かの煩ひもなさず、波風をも立てずして、その勢、五百余騎でぞ下られける。
こゝに津の国の源氏、太田太郎頼基、この由を聞きて、
「鎌倉殿と仲違ふて、下り給ふ人を、さうなう、我が門の前を、通しなば、鎌倉殿の、返り聞こし召しれんずる所も有り。矢一つ射掛け奉らん」とて、手勢六十余騎、河原津といふ所に追ひ付いて、攻め戦ふ。判官、 「その義ならば、一人も漏らさず討てや」とて、五百余騎取つて返し、太田の太郎ろ十余騎を、中に取り籠めて、我討つ取らんとぞ進みける。太田の太郎頼基、家の子郎党多く討たせ、わが身手負ひ、馬のふとばらいさせ、力及ばで引き退く。殘り留まつて、防ぎやいける兵ども、卅余人が頸切りかけさせ、戦神に祀り、悦びの時をつくり、「門出よし」とぞ悦ばれける。その日は、津の国、大物浦にぞ着き給ふ。
明くる四日の日、大物の浦より、舟にて下られけるが、折 ※大蔵卿泰經の朝臣 高階泰経。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。若狭守・高階泰重の子。後白河法皇の側近(院近臣)。文治元年(1185年)には源義経・行家の謀叛に際して、後白河院への取り次ぎを務めていたことから、源頼朝から謀叛への関与を疑われて子息の高階経仲とともに解官の憂き目に遭い、伊豆国への流罪となった。 ※太田太郎頼基 平安時代末期の武士。大和源氏の系譜を引く所雑色・太田頼資の子。号は太田太郎。平家物語では、都落ちした義経の一党が自分の所領の近くを通り西海に抜けようとしていることを知った頼基が、「我が門の前を通しながら、矢一つ射かけであるべきか」と言って鎌倉に対する忠誠を示すと、少数の手勢を率いて摂津河原津で義経一党に合戦(河原津の合戦)を挑むという勇敢な武士として描かれている。 ※大物の浦 尼崎市大物町。謡曲『舟弁慶』ゆかりの地としても知られている。『平家物語』にも記述がみられ、源頼朝に疑われ都落ちを決意した義経が、西国を目指して船出したのが大物浦であるという。大物浦にある大物主神社には、義経主従が一時身を潜めたという言い伝えが残り、境内には「義経・弁慶隠れ家跡」の碑がある。