髙野南筑紫上人出家登山事。
中比髙野に南つくしと云て貴き聖人ありけり。本は
筑紫者にて所知なむどあまた有中に、彼國の例と
して門田多持たるをいみじき事と思へる習なるを、此
男は家の前に五十町ばかりなむ持たりける。八月はか
りにやありけん朝指出て見るに、ほなみゆら/\と出とゝの
をりて、露心よく結び渡して、はる/"\見へわたるに思ふ樣、
此國に階へる聞へ有る人多かり。然ども門田五十
町持る人はあり難こそ有め。下らうの分にはあわぬ身か
なと心にしみて思居たる程に、さるべき宿善や催しけむ。
又思樣抑是は何事ぞ。此世の有樣昨日有と見
し人今日は無。朝にさかへる家夕にをとろひぬ。一度眼
閇る後恡たくはへたる物何の詮かある。はかなく執心に
ほだされて永三途に沈なん事こそいと悲けれと、忽に
無常を悟れる心つよく發ぬ。又思樣我家に又返入
なば妻子あり眷属も多かり。定てさまたげられなむず。
唯此處を別て知らぬ世界に行て佛道を行はむと
思て、白地なる躰ながら京へ指て行。其時さすがに物のけし
きや知かりけん、往來の人あやしがりて家に告たりければ、
驚さはぎてける樣ことはりなり。其中に悲しけるむすめの
十二三ばかりなる者有けり。泣々をひ付きて我を捨ては
いづくへをはしますとて袖をひかへたりければ、いでやをのれに
さまたげらるまじきぞとて刀をぬきかみを押切つ。むすめ恐
をのゝきて袖をばなして返にけり。斯しつゝ此よりやがて
髙野の御山へ上て頭をそりて本意のごとくなむ行けり。
彼むすめ恐てとゞまりたりけれど、猶跡を尋て尼になりて、
彼山のふもとに住て死ぬるまで物打洗たちぬふわざを
してぞ孝養しける。此聖人後には徳髙成て髙も賤も
帰せぬ人なし。堂を作供養せんとしける時、導師を思
煩間に夢に見樣、此堂は其日其時浄名居士の
をわしまして供養し給べき也と人の告る由見ければ、
即枕障子に書付つ、いとあやしけれど樣こそ有めと思
て、自ら日を贈けり。正其日に成て堂荘厳して心
もとなく待居たりければ、朝より雨さへふりて更に外より
人の指入もなし。やう/\時になりていとあやしけなる法
師の簑笠きたる出來て礼ありく有けり。即此をとらへて
待奉りけり。とく此堂をこそ供養し給めと云法師驚
て云都て左樣の才覚の者には非と云。あやしの物の
自ら事の便り有てまいり來れる計也。とて事外に
もてなしけれど、兼て夢の告の有し樣なんど語て書
付たりし月日のたしかに今日に相階へる事をみせた
りければ、遁るべき方なくて、さらば形の如く申上侍らん
と云て、みの笠ぬぎ捨て忽に礼盤に上てなべてならず
目出く説法したりけり。此導師は天台の明賢阿闍
梨になむありける。彼山をおがまんとて忍つゝ樣をやつ
してまうでたりける也。此より此阿闍梨を髙野には
浄名居士の化身と云なるべし。さて此聖人は殊貴き
聞へありて白河院の帰依し給ける髙野は此聖人の
時より殊に繁昌しにけり。終に臨終正念にして往
生を遂たる由委く傳に見たり。惜むべき資財に
付て厭心を發けむ。いとありがたき心を源とす。
人もこれにふけり我も深著する故に、諍ねたみて貪欲
も弥まさり瞋恚も殊榮けり。人の命をも絶ち多の財
をもかすむ。家のほろび國のかたぶくまでも皆此より發る。
此故に欲深ければわざはひ重しとも説、又欲の因縁を
以て三悪道に堕すとも説けり。かゝれば弥勒の世には
財を見ては深う恐厭べし。此釋迦の遺法の弟子、此か
為に戒を破り罪を作て地獄に墜ける者なりとて、
毒虵を捨るが如く道のほとりに捨べしと云へり。
※弥 二カ所の弥は、弓へんではなく、方へん。
※南つくしと云て貴き聖人 名前不明。三外往生記、高野山往生伝、閑居友(上 十三)に、長治元年(1104年)の往生などが記載されている。南とは高野山の南谷に庵があった事によるらしい。
※天台の明賢阿闍梨 万寿三年(1026年)ー長治二年(1105)天台宗の高僧。比叡山横川の首楞厳院(横川中堂)に住し、説法神妙と言われた。
※委く傳に見たり 三外往生記らしい。
※欲の因縁を以て三悪道に堕す 法華経方便品の経文。