


六 六代の事 をさりともとこそ頼み奉りしに、遂に取られぬる事の悲ししさよ。只今もや失ひつらん」と、かきくどき、袖を顔に押し当てて、さめざめとぞ泣かれける。夜になれども、胸せき上ぐる心地ちして常も微睡み給はざりしが、ややあつて、乳母の女房に宣ひけるは、 「只今、ちと微睡みたりつる夢に、この子が白ひ馬に乗りて來たりつるが、『余りに御恋しう思ひ參らせ候程に、暫しの暇請ふて參て候』とて、側についゐて、何とやらん、世に恨めしげにて、有つるが、幾程無くて、折驚かされ、側を探れども人も無し。夢だにも暫しもあらで、やがて覚めぬる事の悲しさよ」とぞ、泣く泣く語り給ひける。去程に、長き夜よをいとど明しかね、涙に床も浮くばかり也。限りあれば、鶏人暁を唱へて、夜も明けぬ。 斎藤六帰り參りたり。母上、 「扨如何にや」と問ひ給へば、 「今までは別の御事も、候はず。是に御文の候」とて、取り出ひて奉る。是を開けてて見給ふに、 今までは別の子細も候はず。さこそ御心もとなう、思し召れ候らん。いつしか誰々も、御恋ひしうこそ思ひ參らせ候へ と、大人しやかに書き給へり。母上、これを顔に押し当てて、とかうの事もの宣はず。引きかづいてぞ臥し給ふ。
かくて時刻も遥かに押し移りければ、斎藤六、 「時の程もおぼつるなふ候。御返事給はつて、歸り參り候はん」と申ければ、母上、泣く泣く御返事書いてぞたふてける。斎藤六、暇申して出でにけり。乳母の女房、せめての心のあられずさにや、大覚寺をば紛れ出でて、その辺を足に任せて、泣き歩く程に、ある人の申けるは、 「是より奧、高尾といふ山寺の聖、文覚坊と申す人こそ、鎌倉殿の、ゆゆしき大事の人に、思はれ參らせてましましけるが、上臈の子を弟子にせんとて、欲しがらるるなれ」と言ひければ、乳母の女房、嬉しき事をも聞きぬと思ひ、直ぐに高尾へ尋ね入り、聖に向かひ參らせて、泣く泣く申しけるは、 「血
※文覚坊 文覚(もんがく、生没年不詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧。父は左近将監茂遠(もちとお)。俗名は遠藤盛遠(えんどうもりとお)。文学、あるいは文覚上人、文覚聖人、高雄の聖とも呼ばれる。弟子に上覚、孫弟子に明恵らがいる。
京都高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴したため、渡辺党の棟梁・源頼政の知行国であった伊豆国に配流される(当時は頼政の子源仲綱が伊豆守であった)。文覚は近藤四郎国高に預けられて奈古屋寺に住み、そこで同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。のちに頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。また頼朝のもとへ弟子を遣わして、平維盛の遺児六代の助命を嘆願し、六代を神護寺に保護する。