3本薬師寺
元明天皇からの視点で、藤原京大極殿から草壁皇子墓陵の有る真弓丘が見えるとしたが、実は見えない。正確に言うと現在は見えるが、持統天皇からは息子の墓陵が見えなかった。
地図に示すと、束明神古墳の有る真弓丘と大極殿を直線で結ぶと、本薬師寺跡が有る。
本薬師寺跡付近拡大図
本薬師寺は、天武天皇9年(680年)に皇后の病気平癒を祈って天武天皇が建立を誓願し、朱鳥元年(686年)に天武天皇が亡くなり、皇后の持統天皇が引き継ぎ、持統天皇2年(688年)頃までに伽藍が整い、持統天皇8年(698年)に飛鳥浄御原宮から藤原京宮に遷都した後も工事が行われ、文武天皇2年(698年)に完成したとされる。現在は金堂や東西の塔が、発掘されている。
この本薬師寺が視界を遮るのである。
さて、最愛の子の眠る山が見えない場所に果たして、宮殿をわざわざ建てるであろうか?遮る本薬師寺の建物を移設しないのであろうか?
本薬師寺は、天武天皇が持統天皇の病気快癒を願った愛の証。草壁皇子は、二人の愛の結晶で、天皇になりそうな甥の大津皇子を排除してまで、守った最愛の子。二人の象徴が、同時に見える場所に大極殿を作ったと考える方が、合理的である。