寂蓮、藤原家隆、藤原雅経、藤原秀能
又、寂蓮、定家、家隆、雅經、秀能等なり。
寂連は、なをざりならず哥詠みし物なり。あまり案じくだきし程に、たけなどぞいたくはたかくはなかりしかども、いざたけある哥詠まむとて、龍田の奧にかゝる白雲と三躰の哥に詠みたりし、恐ろしかりき。折につけて、きと哥詠み、連哥し、ないし狂歌までも、にはかの事に、故あるやうに詠みし方、眞實の堪能と見えき。
家隆卿は、若かりし折はきこえざりしが、建久のころをひより、殊に名譽もいできたりき。哥になりかへりたるさまに、かひ/\しく、秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり。たけもあり、心も珍しく見ゆ。
雅經は、殊に案じかへりて哥詠みし物なり。いたくたけある哥などは、むねと多くは見えざりしかども、手だりと見えき。
秀能法師、身の程よりもたけありて、さまでなき哥も殊の他にいでばえするやうにありき。
まことに、詠み持ちたる哥どもの中にも、さしのびたる物どもありき。しかるを、近年、定家無下の哥の由申す由聞ゆ。
※龍田の奧にかゝる白雲
巻第一 春歌上 寂蓮 87 和歌所にて歌つかうまつりしに春歌とてよめる
葛城や高間のさくら咲きにけり立田のおくにかかるしら雲