1 はじめに
方丈記の大福光寺本に記載されている「不請阿弥陀仏両三遍申シテヤミヌ」について、「不請阿弥陀仏」の意味が不明で、長年議論になっている。
今回、その考えを整理し、考察する。
2 各異本による記載
(1)大福光寺本
不請阿弥陀仏
(2)前田家本
不惜のあみだぶ
(3)保冣本
不祥〔浄イ〕(不情)の阿弥陀仏
(4)氏孝本
不浄の阿弥陀(仏)
(5)名古屋本
不浄(請)の阿弥陀仏〔念仏〕
(6)兼良本、近衛本、嵯峨本、簗瀬本
不請の念仏
(7)山田本、三条公爵本
不情阿弥陀仏
(8)三条西家本
不軽の阿弥陀仏
不請、不浄、不祥、不情、不軽となっている。
不請は不明にしても、不浄、不祥、不情は、阿弥陀仏を修飾する語としては相応しく無い。とすれば、長明自身を「不浄の身が唱える念仏」と卑下する用語として捉えたものと考えられる。
不借、不軽は、妙法蓮華経に有る用語だが、阿弥陀仏を修飾する詞では無い。
3 各者の説
瓜生等勝氏が「『方丈記』の『不請の阿弥陀仏』考」において各諸説を整理した所によると、
(1)他より請はれざるに、自らすゝみてなす念仏。
(2)こちらから請い願わずとも救って下さる仏への念仏。
(3)仏に対して何の願うところもない、心に請い求めることのない念仏。
(4)己が心にさほど請い望まず、ただ口ずさみに念仏すること。これ心の深からぬを卑下していいしなり。
(5)信仰の心足らず、迷いの心を離れずに唱える念仏。
(6)「奉請」を「不請」と書きあやまったとする「奉請説」
(7)「不奉請説」すなわち、「奉請の儀をととのえない念仏」
として、(7)を主張している。
又、木下華子氏は、「『方丈記』終章の方法」(文学2012年3、4月号)の中で、諸説を取り纏め、
(1)「不請」を「阿弥陀仏」にかかる連体修飾語とし、「衆生が請わずとも救いの手を差しのべる阿弥陀仏」の意。
(2)「請」を「請く」(受ける)と解し、「仏も請けない念仏」とする。
(3)「不請」は「不承」の意で、「自分の心から望むものではない」(口先だけの・申し訳程度の念仏)とする。
(4)「請」を「請う」(求める)と解し、「他者から請われることのない・自発的な念仏」とする。
(5)「不請」を「不奉請」の意で、「阿弥陀仏を奉請する儀式を整えぬまま行う念仏」の意。
(6)「不請」は「奉請」の誤りで、「阿弥陀仏を招き請じる」の意。
(7)「不請」は「口称」または「口唱」の誤りで「阿弥陀仏の名を口に唱える」の意。
(8)「不請」を「不勧請」の略で、「勧請(十方法界の無量仏に対して久住世間・転輪の二事の希求を行わない)念仏」の意。
と8説を説明している。
西川徹郎氏は、木下氏の分類を紹介するとともに、大福光寺本に記載されていない「ノ」を補っている事を批判し、大経の「不請之友」、「不請之法」の用例から「不請」を阿弥陀仏の名号の一つとして「不請阿弥陀仏」と長明は唱えていたとしている。とても簡潔で優れた説では有るが、他の用例が無いのが欠点である。
又、「ノ」を補う説を「木下氏を含め国文学者等の瑕疵は決して浅く無い。」と非難しているが、鴨長明を「かもちょうめい」と読まず、「の」を補って読むのが当たり前であり、「ノ」を含まない説もそれ程根拠が有るようには見えない。
4 考察
先ずここで、多くの本が異なる漢字を充てているが、方丈記のオリジナルが平仮名で「ふしやう」と書いてあった為、漢字に直す時、差異が生じたと見ていい。
「不祥」や「不浄」では、阿弥陀仏を修飾する語としては相応しく無い為、更に異なる字を充てて来たと考えられる。
濁点を入れ、「ぶしやう」とすれば、不精〔無精〕とも充てられ、「不精の念仏」とすれば、長明が自らを余り真面目な僧侶では無いと言う方丈記の記載として意味も通る。これは、方丈記中段に「念仏物ウク読経マメナラヌ時ハミヅカラヤスミ身ヅカラヲコタル。」とも整合する。
念仏と言えば今では、「南無阿弥陀仏」の六字の名号に捉えられているが、それぞれの仏、菩薩、明王には真言が有り、例えば大日如来には「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・アビラウンケン」と唱えます。
法然が浄土宗を確立する以前は、多くの仏に帰依する念仏がされていて、阿弥陀仏に限定はされていなかった為、阿弥陀仏に限定する表記がされたと考えられる。
「両三遍申シテヤミヌ」の何を申したかと言うと、「阿弥陀仏」では無く、「南無阿弥陀仏の念仏」を2、3回唱えて止めてしまう無精さを書いているものと推察する。
参考
方丈記全注釈 簗瀬一雄著 角川書店
念仏者鴨長明 西川徹郎 新視点・徹底追跡方丈記鴨長明 勉誠出版