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方丈記の数字に関する考え方

1 始めに
方丈記には、様々具体的な数字が記載されているが、これが逆に現実との整合が無い為に、様々な考察が行われている。
これらの数値について考えてみる。
猶、方丈記の使用したテキストは、前田家の経尊閣本を使用した。

2 百分が一に及ばず
更にわが心と一の庵をむすぶ。これをありし住まひに並ぶるに、十分か一なり。

これを中ころのすみかに並ぶれば、また百分が一に及ばず。

方丈の狭さを言うのに、過去に祖母から受け継いだ家、賀茂川に作った家の倍率を表している。
逆に方丈の庵から逆算すると大変巨大なものとなり、貧乏神主としては身にそぐわなくなる。
キーワードとなるのは、「広さは方丈」つまり面積の比較である。
これを算数的にみると1辺の長さは、
√100×3.03m=30.3m
√10×30.3m=95.8m
祖母の家は丁度1町弱の面積となり、高級貴族並みの屋敷を持っていた事になる。
細野哲雄氏によると、長明の父長継は、17歳で下鴨神社の祢宜になっていて、その後十数年に渡って下鴨神社を統率する正祢宜となっているとのことである。しかし、若年過ぎて通常では考えられない。つまり長継を下鴨社の祢宜に押し上げたのは、その母親の力が大きかったのでは無いだろうか?

以上の事から、倍率については、10分の一、100分の一と切りのよい数値で多少誇張が有るにしても、倍率は面積、祖母は大貴族の娘、と考えるも可笑しくない。

3 六十の露 
ここにむそぢの露消えがたに及びて、更に末葉の宿りをむすべる事あり。
簗瀬一雄氏によると、承元二年(1207年)長明五十四歳頃大原から日野外山に移り住んだとしている。
この五十四歳で六十歳と記載している事から誇張やその前の「すなはち、五十の春を迎へて、家を出て世を背けり。」から切りのよい六十とした事も考えられている。
細野哲雄氏によると、明月記の中で定家は、五十六歳で六旬と記しているとのことである。
この歳を10年単位で数える旬と言う数え方を
1~10歳 1旬
11~20歳 2旬

41~50歳 5旬
51~60歳 6旬
となり、五十四歳は、6旬となる。

方丈記の読者に対しては、長明が五十四歳も六十歳も晩年である事を変わりは無い。概ね六十歳と言う事でも良いとは思う。

参考
鴨長明伝記考ー父長継をめぐって 細野哲雄著 鴨長明伝の周辺・方丈記 笠間叢書

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