原型の推察
後鳥羽院は、隠岐本識語によれば「かずのおおほかるにつけてはうたごとにいうなるにしもあらず。」として二千首の膨大な歌の全てが良いわけでは無く、特に「そのうち、みづからが哥をいれたること三十首にあまれり。」と自分の歌が、「いかでか集のやつれをかへりみざるべき。」と集のやつれを引き起こしていると考えた。
つまり、残したい歌を選んだのではなく、削除したい歌を選んだのである。
これを先者の一人である藤原家隆に送って、評価を勅したものと考える。後鳥羽院自らの親撰とは言え、あくまでも撰者が選ぶのが勅撰集であるとの考えかも知れない。
しかし、家隆の息隆祐筆の伝本天理大学図書館蔵の新古今和歌集の奥書には、
此本是後鳥羽院於隠岐手自有御選定而家隆卿之許被送遺也。此号御選定本仍彼卿自筆書寫之而取止置家也。朱合点之外皆除之云々。
と有り、「朱合点の外、皆これを除く云々」となっている事から、残された歌に朱合点が付されていた事になる。
しかし、「彼の卿自筆で之を書寫し、而して家に取り止置し也」と隆祐が見たものは、家隆が後鳥羽から送られたものを書写して、家に保存したものである。
又、同奥書きから、後鳥羽院の追号は仁治3年(1242年)7月であり、藤原家隆も既に嘉禎3年4(1237年)に亡くなっており、藤原隆祐は死没した建長3年(1251年)以後までの約10年の間に隆祐が書写された事となる。
一方、奥書から六条宮系と呼ばれるものがあり、同じく承久の変で但馬に流された六条宮雅成親王(正治2年 - 建長7年)のもとに送られた系統である。その奥書には、
此程以六條宮御本寫之。重被撰定旨尤以龜鏡也。其時所被出之哥以朱消者是也。此外猶與書本相違事等有之以朱所直註皆寫彼御本者也。
と六条宮本で校合する際、朱消が写し入れられたとしている。
後藤重郎の「数が少ないといふ便宜的措置」以外に、消す理由は考えられないだろうか。
そこで、
一 後鳥羽院は、自らの歌を含め、劣った歌を削りたかった。従って削る歌に合点を付した。
二 後鳥羽院は、この撰集抄を撰者の家隆に送り、評価を勅した。
三 家隆は、削られた歌の中から残すべき歌に合点を付し隠岐に送り返した。家隆は撰者であるから、残すべき歌に合点を付して家に残した。
四 途中、但馬にいる六条宮の元に送られ、六条宮はこれを書写してから隠岐に送られた。猶、六条宮が書写したのは、京に送られて来た時かも知れない。
五 又、隠岐には、和歌所の寄人として、清書を担当した藤原清範が同行しており、隠岐で残した歌のみを清書させ、隠岐本序を加え完成したと考えて良い。
六 この本を後から校合した者は、隠岐本合点を付した為、隠岐本序の位置に困り、識語の前に入れたので隠岐本識語とも読んだ。
七 書写の途中で後鳥羽院が崩御し、隠岐本の完成を見ずに上巻のみ完成した。
と言う説を考えた。異論の出る余地は無いが、正論と言う証拠は無い。
宮内庁書陵部本の原本は、上冷泉家時雨亭文庫を書写したものである。
何故隠岐本が上冷泉家にあったのかは不思議でしかない。冷泉家は、御子左家の書籍を相続し、本家の二条家もその撰者を争った京極家も受け継ぐ事が出来なかった。
定家は、後鳥羽院と断絶しており、為家は順徳院に贔屓にされ、佐渡へ同行を勅名されたが拒否している。
後鳥羽院隠岐本を入手すべが無い。
或いは、京極為兼が流罪となった時に、既に後鳥羽院隠岐本を書写していた書籍も相続したのかも知れない。