元久二年六月十五日に披講された元久詩歌合の出題について、明月記を読むの解説の中で田渕句美子氏は明月記四月二十九日の条「可被合詩歌之由被議定。出題歌人可催之由蒙仰退出。」を「出題と歌人の選定は名目上定家に任された。」(同六〇頁中段)とある。
この時居たのは、良経(詩)、慈円(歌)、長兼(詩)、定家(歌)であり、良経が言ったので、決定権は慈円に有る。中将と言う低い身分の定家が決定する事はあり得ない。
又、この詩歌合への出詠に定家は「今度歌殊不得風情、定見苦歟」(五月十二日条)とこの題は得意とするものではなかった。
定家は、この選定に同意が出来た程度であろう。そして直ぐに歌人達に詩歌歌合の開催と題を送る役割を担ったに過ぎないと推察する。
この時居たのは、良経(詩)、慈円(歌)、長兼(詩)、定家(歌)であり、良経が言ったので、決定権は慈円に有る。中将と言う低い身分の定家が決定する事はあり得ない。
又、この詩歌合への出詠に定家は「今度歌殊不得風情、定見苦歟」(五月十二日条)とこの題は得意とするものではなかった。
定家は、この選定に同意が出来た程度であろう。そして直ぐに歌人達に詩歌歌合の開催と題を送る役割を担ったに過ぎないと推察する。