義家朝臣宇 孫子曰
治殿へまゐりて、 鳥起者伏也獣駭
戦の物語申 者覆也
けるを大 齊田單燕の兵を破りし
江匡房卿 時則墨の市人をして、祖
聞て、武勇 先を路にまつり、食を
はすぐれた 落らして衆鳥をして、
る大将なれ ついばましめしは、
ど、猶軍の 将に城中人少
道は知らぬ きを示すなり。
と、獨り 是野に
ごとし 伏有時
て出 は、鳥
られ 驚くに
たるに、 反する
義家の もの
郎党貞 歟
任聞て江
帥のかゝる
事の宣
へりと、
語りけ
れば、定め
てゆゑ
あらんと、
車に乗ら
るゝ処へ、義
家はしり
付て、會釈
せられ、やがて
弟子と成て
學ばる。其後、永保
の合戦の時、金沢
の城を攻けるに、一
列の雁飛さがりて、
刈田の面におりん
としけるが、俄に
おどろき、つらを乱
して、飛去る。義家
此時、江帥の教はこゝ
なり。軍野に伏する
時は飛雁つらを乱
すと、此野かならず伏
兵あらんと。終にこれを
討て、勝利をえられし
となり
壬生忠見
いづかた
に
啼て
ゆく
らむ
ほとゝ
ぎす
よどの
わたり
の
まだ
よふ
かき
に
室積には、さゞら浪
立とうたひ、江口には、月
はもれと詠ず。手
越の千手、池田の
熊谷、鏡の宿、野
上の里、加多の
立櫂、浅妻の
波枕なんど、あは
れ流れのうき
身にも、やさし
き名の今に
つたへけるも、
多かり其
身は賎し
かれども、
高貴に
まじ
はり
よみ出
る和歌
も、代々の
撰集にす
くなから
ず。朝野
群載にも、
遊女の記あ
りて、古き
遊女の名、種々を載
られたり。こゝに写
すところは、かゞみの宿
の遊女にして、画史何等
の古画を藍にもとゝ
なせるにや。ほどほど
いにしへにせまる。
鏡の名のうつし
えたりといふべし
基俊秀才にして、
道に長じぬれど、
人の歌を見る時は、
口を極めて批判
せられしほどに、
人其多口を悪む。
琳賢顕仲等に
たばかられて、嘲弄
せられし事有。
然れ共、俊成の
師として、後世
二条家の
祖と仰がる。
非常の
人
かならず
非常の
才ある
ならむ
歟
兵は神早を尊む。さきん
ずる時は敵を製し、おくるゝ
時は敵に製せらる。為朝が、
白川の宮に軍儀する。既
にこれなり。頼長こころ臆
するをもって、いたづらに
援兵をまち、戦猶豫
するがゆゑに、遂に製
せらるゝに至る。もし
為朝の策
もちひらせば、
勝敗我、いづ
れに有を
しらず
呉子曰
兵を用るの害
猶豫最大なり。
三軍の災は、孤
疑よりなると、史
これをいふか