事可然軆
かぎりあればけふ
ぬぎすてつ藤衣
はてなきものは
涙なりけり
拾遺集
恒徳公の服ぶく脱ぎ侍るとて
限りあれば今日ぬぎ捨てつ藤衣はてなきものは涙なりけり
久我大納言通兄卿御筆
キー五
㐧五 事可然軆
久我大納言通兄卿筆
かぎりあれば
久我通兄
宝永6年11月4日(1709年) - 宝暦11年5月19日(1761年))
江戸時代中期の公卿[1]。号は含華光院[1]。おもに中御門天皇(114代)・桜町天皇(115代)・桃園天皇(116代)の三帝にわたって仕え、官位は従一位右大臣まで昇った。父は右大臣久我惟通[1]。母は左近衛少将細川綱利(熊本藩主)の養女(細川利重(熊本新田藩主)の娘)。息子に権大納言久我敏通・左近衛少将中院通維・権中納言東久世通積がいる。娘に左近衛権少将細川重賢(熊本藩主)の室、権大納言千種有政の室、修理大夫酒井忠貫(小浜藩主)の室がいる。
1728 正三位
1731 権大納言
1732 従二位
1741 武家伝奏
1744 正二位
1750 右近衛大将
1750 右馬寮御監
1750 内大臣
1754 従一位
1754 右大臣
六躰和歌集 色紙
平成30年9月19日 参點八/七