三十六歌仙 12枚色紙
宗于
豊岡殿有尚卿
承応三年(1654年)-天和二年(1682年)九月
信明
平松殿時方卿
慶安四年(1651年)-宝永七年(1710)
清正
清閑寺殿熙定卿
寛文二年(1662年)-宝永四年一月(1707年)
貫之
傳法院殿實治公(三条実治)
慶安三年(1651年)‐享保九年八月(1724年)
号は暁心院観照。
元禄二年(1689年)実治と改名。
元禄六年(1693年):内大臣に就任
重之
高丘殿季起卿
寛文四年(1664年)-正徳五年一月(1715年)
順
富小路貞維卿
寛文八年(1668年)―正徳元年(1711年)
元禄二年(1689年)貞維と改名。
斎宮女御
高辻殿豊長卿
寛永二年(1625年)―元禄十五年(1702年)六月
遍昭
萩原殿員従
正保二年(1645年)―宝永七年(1710年)
貞享四年(1687年):従三位
元禄十五年(1702年):正三位
伊勢
園殿基福公
元和八年(1622年)―元禄十二年(1699年)十一月
貞享三年(1686)従一位准大臣
業平
吉田殿兼敬卿
承応二年(1653年)―享保十六年(1732年1月)十二月
元禄元年(1688年)従三位
元禄十年(1697年)名を兼敬と改名
享保十四年(1729年)正二位
躬恒
中院殿通茂公
寛永八年(1631年)―宝永七年(1710年)三月
宝永元年(1704年)2月内大臣
人麻呂
芝山殿廣豊卿
延宝二年(1674年)―享保八年(1723年)二月
元禄二年(1689)、初名季寿を広豊と改名
正徳四年(1714)従三位
極札とそれぞれの筆者の生没年を見ると、12名は全て同一時期に生きていた事が分かる。
この筆者の中で、唯一時代がヅレているのは、28歳で早世した豊岡有尚である。天和二年(1682年)没であれば、これらのシリーズが出来たのは、天和年間以前となる。
一方、極札を書き、屏風に張り付けたのは(色紙の裏に金箔の残がある)以下の理由からかなり後となる。
三条実治や富小路貞維が改名したのは元禄二年(1689年)、吉田兼敬が改名したのは、元禄十年(1697年)となっている。
従三位以上を「卿」、准大臣以上を「公」と敬称を付けられる。これに合わないのは、やはり豊岡有尚であり、公卿の地位までは至っていない。低い身分なのだが、娘が鷹司信子に従い、江戸に下向し徳川綱吉の側室(清心院)となった為に、死後追号されたのかも知れない。
極札には、中院通茂には「公」の称号を使っているが、通茂が内大臣となったのは、宝永元年(1704年)2月である。芝山広豊が正徳四年(1714)に従三位となる事から、「卿」となる。
萩原員従は、貞享四年(1687年):従三位となっているので、本来は「卿」の称号となるが、無記載となっているが書き忘れたのであろう。
伝法院殿實治公は、内大臣以上で伝法院の称号を持った者はいないが、実治の名を持つのは三条実治だけなので、鑑定者の勘違いであろう。
三十六歌仙歌は、藤原公任と同歌人を別の感覚で選んだ藤原俊成の二種類がある。
宗于
豊岡殿有尚卿
承応三年(1654年)-天和二年(1682年)九月
信明
平松殿時方卿
慶安四年(1651年)-宝永七年(1710)
清正
清閑寺殿熙定卿
寛文二年(1662年)-宝永四年一月(1707年)
貫之
傳法院殿實治公(三条実治)
慶安三年(1651年)‐享保九年八月(1724年)
号は暁心院観照。
元禄二年(1689年)実治と改名。
元禄六年(1693年):内大臣に就任
重之
高丘殿季起卿
寛文四年(1664年)-正徳五年一月(1715年)
順
富小路貞維卿
寛文八年(1668年)―正徳元年(1711年)
元禄二年(1689年)貞維と改名。
斎宮女御
高辻殿豊長卿
寛永二年(1625年)―元禄十五年(1702年)六月
遍昭
萩原殿員従
正保二年(1645年)―宝永七年(1710年)
貞享四年(1687年):従三位
元禄十五年(1702年):正三位
伊勢
園殿基福公
元和八年(1622年)―元禄十二年(1699年)十一月
貞享三年(1686)従一位准大臣
業平
吉田殿兼敬卿
承応二年(1653年)―享保十六年(1732年1月)十二月
元禄元年(1688年)従三位
元禄十年(1697年)名を兼敬と改名
享保十四年(1729年)正二位
躬恒
中院殿通茂公
寛永八年(1631年)―宝永七年(1710年)三月
宝永元年(1704年)2月内大臣
人麻呂
芝山殿廣豊卿
延宝二年(1674年)―享保八年(1723年)二月
元禄二年(1689)、初名季寿を広豊と改名
正徳四年(1714)従三位
極札とそれぞれの筆者の生没年を見ると、12名は全て同一時期に生きていた事が分かる。
この筆者の中で、唯一時代がヅレているのは、28歳で早世した豊岡有尚である。天和二年(1682年)没であれば、これらのシリーズが出来たのは、天和年間以前となる。
一方、極札を書き、屏風に張り付けたのは(色紙の裏に金箔の残がある)以下の理由からかなり後となる。
三条実治や富小路貞維が改名したのは元禄二年(1689年)、吉田兼敬が改名したのは、元禄十年(1697年)となっている。
従三位以上を「卿」、准大臣以上を「公」と敬称を付けられる。これに合わないのは、やはり豊岡有尚であり、公卿の地位までは至っていない。低い身分なのだが、娘が鷹司信子に従い、江戸に下向し徳川綱吉の側室(清心院)となった為に、死後追号されたのかも知れない。
極札には、中院通茂には「公」の称号を使っているが、通茂が内大臣となったのは、宝永元年(1704年)2月である。芝山広豊が正徳四年(1714)に従三位となる事から、「卿」となる。
萩原員従は、貞享四年(1687年):従三位となっているので、本来は「卿」の称号となるが、無記載となっているが書き忘れたのであろう。
伝法院殿實治公は、内大臣以上で伝法院の称号を持った者はいないが、実治の名を持つのは三条実治だけなので、鑑定者の勘違いであろう。
三十六歌仙歌は、藤原公任と同歌人を別の感覚で選んだ藤原俊成の二種類がある。