新古
かさゝきの渡せる橋にをく霜のしろきをみれは夜そ更にける
冬部
かさゝきの橋を読事此哥より始れり。此哥節々あれとも慥成不見。或一義寒夜の天漢の白きを見てかしこに鵲の橋も有こそすらめと推量りて渡せる橋にをく霜のと云也、と申儀を以て仮に可用之歟。追て有口伝。此哥を以て鵲を橋に霜を読事、口岑か哥に /鵲の渡せる橋に置霜を夜半にふみ分ことさらにこそ 此哥大和物語にあり。曽祢好忠(曽丹とも云是ヲ字と云)
/鵲のちかふる橋のまとをにて隔る中に霜やをくらん
○中納言家持
/大納言従二位大伴宿祢旅人男。
百人一首経厚抄は、百人一首抄又は百人一首聞書と呼ばれ、奥書から享録三年(1503年)の成立で経厚法印著。青蓮院尊鎮法親王に講じた時の注釈。(位藤邦生)
かさゝきの渡せる橋にをく霜のしろきをみれは夜そ更にける
冬部
かさゝきの橋を読事此哥より始れり。此哥節々あれとも慥成不見。或一義寒夜の天漢の白きを見てかしこに鵲の橋も有こそすらめと推量りて渡せる橋にをく霜のと云也、と申儀を以て仮に可用之歟。追て有口伝。此哥を以て鵲を橋に霜を読事、口岑か哥に /鵲の渡せる橋に置霜を夜半にふみ分ことさらにこそ 此哥大和物語にあり。曽祢好忠(曽丹とも云是ヲ字と云)
/鵲のちかふる橋のまとをにて隔る中に霜やをくらん
○中納言家持
/大納言従二位大伴宿祢旅人男。
百人一首経厚抄は、百人一首抄又は百人一首聞書と呼ばれ、奥書から享録三年(1503年)の成立で経厚法印著。青蓮院尊鎮法親王に講じた時の注釈。(位藤邦生)