9 結論
以上の事から
(1)寂蓮の死去は建仁二年七月二十日であるので、無名抄の「寂蓮は此事をいみじがりて」とあるのは、宮内卿が一度倒れた事を指している。
(2)源家長日記にある兄の源具親が、建仁元年八月十五夜撰歌合を早退したのは、妹の宮内卿が倒れたからと推察される。
(3)石田吉貞氏の宮内卿歿年考による宮内卿の逝去を承元元年(建永二年)五月九日とする大日本史料を誤りとする説は異論の余地が無い。しかし、明月記の元久二年三月二日の現代歌人の歌を巻頭に配置せよと言う後鳥羽院の勅命があり、宮内卿の新古今和歌集の巻頭歌が無いのは、その時には逝去していたからと言う説は、宮内卿の撰歌は勅撰集配列から巻頭に持ってくるのは無理がある。
(4)明月記の源具親の活動記録から、元久元年は、四月の葵祭、十二月の後鳥羽院の熊野御幸随行、八月十五日和歌所当座歌と神事等に参加していて、大穢に触れた者は、決して参加出来ない事から、親の源師光が死去したのは元久元年はあり得ない。
(5)妹の逝去は、軽服忌中期間が短い事から、明月記の具親の記録からは明らかにはならないが、宮内卿のライバルである俊成女の建永二年六月頃詠進の最勝四天王院障子和歌が、宮内卿の歌を強く意識した歌二首、宮内卿を寵愛した後鳥羽院も一首詠歌している。しかし、それ以前の元久詩歌合、卿相侍臣歌合、賀茂別雷社歌合・鴨御祖社歌合は、後鳥羽院も俊成卿女も出詠しているが、その様に宮内卿を意識した歌を作っていない。
この事から、宮内卿の歿年を建永二年三月から六月と推察される。
以上の事から
(1)寂蓮の死去は建仁二年七月二十日であるので、無名抄の「寂蓮は此事をいみじがりて」とあるのは、宮内卿が一度倒れた事を指している。
(2)源家長日記にある兄の源具親が、建仁元年八月十五夜撰歌合を早退したのは、妹の宮内卿が倒れたからと推察される。
(3)石田吉貞氏の宮内卿歿年考による宮内卿の逝去を承元元年(建永二年)五月九日とする大日本史料を誤りとする説は異論の余地が無い。しかし、明月記の元久二年三月二日の現代歌人の歌を巻頭に配置せよと言う後鳥羽院の勅命があり、宮内卿の新古今和歌集の巻頭歌が無いのは、その時には逝去していたからと言う説は、宮内卿の撰歌は勅撰集配列から巻頭に持ってくるのは無理がある。
(4)明月記の源具親の活動記録から、元久元年は、四月の葵祭、十二月の後鳥羽院の熊野御幸随行、八月十五日和歌所当座歌と神事等に参加していて、大穢に触れた者は、決して参加出来ない事から、親の源師光が死去したのは元久元年はあり得ない。
(5)妹の逝去は、軽服忌中期間が短い事から、明月記の具親の記録からは明らかにはならないが、宮内卿のライバルである俊成女の建永二年六月頃詠進の最勝四天王院障子和歌が、宮内卿の歌を強く意識した歌二首、宮内卿を寵愛した後鳥羽院も一首詠歌している。しかし、それ以前の元久詩歌合、卿相侍臣歌合、賀茂別雷社歌合・鴨御祖社歌合は、後鳥羽院も俊成卿女も出詠しているが、その様に宮内卿を意識した歌を作っていない。
この事から、宮内卿の歿年を建永二年三月から六月と推察される。