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西行物語 東下り 天竜川

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東下り 

   天竜川

 すでにあづまのかたへ下るに、ひかず積ば、とほたうみのてんちゆうの渡りといふ所にて、もののふの乗りたりける船に、びんせんをしたりけるほどに、人多く乗りて船あやふかりけむ、

あの法師下りよ下り

よといひけれど、渡りの習ひと思ひて、聞き入れぬさまにてありけるに、情なくむちをもて西行を打ちけり。

 血などかしらよりいでて、よにあへなく見えけれども、西行少しも恨みたる色なくして、手を合はせ、舟よりおりにけり。これを見て、供なりけるにふだう、泣き悲しみければ、西行つく/\とまぼり、

都をいでし時、道のかんにていかにも心苦しき事あるべしといひしは、これぞかし。たとひ足手を切られ、命を失なふとも、これ全く恨みにあらず。もしいにしへの心をも持つべくは、髪をそりころもを染めてこそあらめ。佛の御心は、みな慈悲をさきとして、われらがごとくのざうあくふぜんの者を救ひ給ふ。さればあだをもて仇を報ずれば、その恨みやまず。にんをもて敵を報ずれば、仇すなはちめつすといへり。きやうの中には、むりやうこう無量劫のかん修したるぜんこんも、一念の悪をおこせば、みな消失すといへり。

 また、ふきやうぼさつは、打たるるつゑを痛まず、

 がちんきやうにょとう ふかんきやまん、しょいしやか、にょとうかいぎやうぼさつだう
(我深敬汝等 不敢軽慢 所以者何 汝等皆行菩薩道)

とて、なほらいはいくきやうし給ひき。これみなりたをむねとし、佛道修行の姿なり。じこん以後もかかる事はあるべし。たがひに心苦しかるべければ、なんぢは都へ歸れとて、東西へぞ別れける。

 この同行の入道も、西行がそのかみの有樣ども思ひいでて、かかる事を見て心憂くおぼえけるも、ことわりとこそあはれなる。

 

※不軽菩薩 がちんきやうにょとう

妙法蓮華経 常不軽菩薩品 第二十

我深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べしと。


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