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万葉集巻第五 鎮石歌 長崎大学医学部正門前

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    山上臣憶良詠鎮石歌一首並短謌 筑前國怡土郡深江村子負原臨海丘上有二石大者長一尺二寸六分圍一尺 八寸六分重十八斤五兩小者長一尺一寸圍一尺八寸重十六斤十兩並皆橢 圓状如鷄子其美好者不可勝論所謂徑尺璧是也 (或云此二石者肥前國彼杵                         郡平敷之石當占而取之) 去深江驛家二十許里近在路頭公私徃來莫不下馬跪拜古老相傳曰徃者息 長足日女命征討新羅國之時用茲兩石挿著御袖之中以為鎮懐 (實是御                            裳中矣) 所以 行人敬拜此石乃作歌曰 可既麻久波阿夜爾可斯故斯多良志比咩可尾能彌許等可良久爾遠武氣多 比良宜弖彌許々呂遠斯豆迷多麻布等伊刀良斯弖伊波比多麻比斯麻多麻 奈須布多都能伊斯乎世人爾斯咩斯多麻比弖余呂豆余爾伊比都具可禰等 和多能曽許意枳都布可延乃宇奈可美乃故布乃波良尓美弖豆可良意可志 多麻比弖可武奈何良可武佐備伊麻須久志美多麻伊麻能遠都豆爾多布刀 伎呂可舞 阿米都知能等母爾比佐斯久伊比都夏等許能久斯美多麻志可志家良斯母     筑前国怡土郡深江村子負ノ原ニ海ニ臨メル丘ノ上ニ二ツノ石有リ。 大キナルハ長サ一尺二寸六分囲ミ一尺八寸六分重サ十八斤五両。 小サキハ長サ一尺一寸囲ミ一尺八寸重サ十六斤十両。並ニ皆堕圓ク状ハ鶏子ノ如シ。 其ノ美好シキコト勝ヘテ論フベカラズ。 所謂径尺ノ璧トハ是也 (或ハ云フ此ノ二ツノ石ハ肥前国彼杵郡平敷ノ石ナリ。 占ニ当タリテ取ルト)
深江ノ駅家ヲ去ルコト二十許リ里近在路ノ頭ニ近ク在リ。 公私ノ徃来スルニ馬ヨリ下リテ跪拜セズトイフコトナシ。 古老相伝ヘテ曰ク徃者息長足日女命新羅ノ国ヲ征討シタマヒシ時ニ コノ両ツノ石ヲ用チテ御袖ノ中ニ挿ミ著ケ以テ鎮懐 ヲ為シタマヒキ。 (実ハ是レ御裳ノ中ナリキ) 所以ニ行人此ノ石ヲ敬ヒ拜ムトイフ。 乃チ歌ヲ作リテ曰ク。     かけまくはあやにかしこし足日女神の尊韓国を向け平 らげて御心を鎮め給ふといとらして斎ひ給ひし真玉
為す二つの石を世の人に示し給ひて万代に言ひ継ぐかねと
わたの底沖津深江の海上の子負の原に御手づから置かし
給ひて神(かむ)ながら神さび坐ます奇し御魂今の現(をつつ)に尊(たふと)
きろかむ
天地の共に久しく言ひ継げとこの奇し御魂敷かしけらしも     万葉集巻第五 0813 、0814 武田祐吉訳 筑前の国怡土の郡深江の村の子負の原の、海に臨んだ丘の上に二つの石がある。 大きいのは長さ一尺二寸六分、周囲が一尺八寸六分、重さが十八斤五両。 ちいさいのは長さ一尺一寸、周囲が一尺八寸、重さが十六斤十両。 両方とも楕円形で形は鶏卵のようだ。 その美しいことは何ともいえない。 直径一尺ある玉というのは、これをいうのだろう。 (ある人がいうには、この二つの石は肥前の国彼杵の郡の平敷の石で、占に当ってこれを取ったのだろうということだ)
深江の駅家を去ること二十里ばかり、道路に近くあるので、公用私用で往来する者は、馬から下りて跪いて拝せぬものはない。 老人が伝えていうには、昔神功皇后が新羅の国を討たれた時に、この二つの石を、御袖の中に挿みつけて御心の鎮めとされた。(実は御裳の中なのだ。) それで旅人がこの石を尊敬礼拝するのだという。 よって歌を作った。その歌は次の通りである。       0813 申すも恐れ多いことである。神功皇后様が、新羅を討ち平らげて、御心をお鎮め遊ばされると、 お取りになって斎をされた、玉のような二つの石を、世間の人にお示しになり、永久に語り 継ぐようにと、海上に面している深江の村の子負の原に、お手づから置き遊ばれて、神で あるがままに、鎮まります、霊妙の神霊は、この今の時代に尊いことである。       0814 天地のある限り、永久に言い継げと、この霊妙の神霊をお置きになったのだろう。    


この丘この町にて 昭和二十年(一九四五)八月九日 原子爆弾により 被災されしかたがたの霊よ 安らかに在られむことを       鎮懐石   文久元年三月建立   長崎大学医学部正門横

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