家長本識語
建保二二年丙子 十二月日清書し侍ぬ。此本以御本於和歌所馳筆之
間外見かえす/"\見ぐるしきさまなれば重而手自清書し侍ぬになん。
たゞし此も外見更にあるまじければたゞ元久元年の比和歌所の開闔
になり侍て此集ゑらばれ侍しことはじめより撰者達のもとへひまな
く仰らるゝ事も又申こともし侍し。のちゑらびてまいらせて後は又
それをこと/"\く叡覽ありて御點ありて五人の歌ども一々部類のほ
どは撰者達五人ながら日々に和歌所にまいりてひめもすに候へばひ
はりごくだものなどをの/\めしよせ明たてばくるゝをかぎりにて
部類侍て後竟宴をこなはれ侍き。その夜は御遊又和歌會など侍き。
さて披露侍しほどに其後おほく歌どもいだされまたいれらるゝこと
侍り。竟宴の後の歌かく出入せらるゝもしらず出入以前の本をゝの
づからかきてあらん事はあさましきひがごとある本なるべし。かる
がゆへにいださるゝ歌どもは年號たしかに侍。最勝四天王院の障子
などにかゝれたる歌そのほか少々侍。かくれあるまじ。これらみな
さだまりて後此清書はして侍れば御本にいさゝかもかはるところあ
るまじ。これにたがはん本はわろき本と末代人おもふべし。あなか
しこ/\。
建保四年十二月廿六日
和歌所開闔正五位下行備前守源朝臣判
彼本奥書云
建保二二丙子十二月廿日戊辰清書了此本於和歌所以御本馳筆之間依
難外見重而清書也。故不加也。筆手自所書寫也。仰此新古今竟宴之
後和歌出入當世故人之中有其數度々出入重承元四年四月廿五日被露
蓽。其後申出御本於和歌所手自書寫之彼本依見苦重雖書寫爲愚筆之
間於外見者可停止之。
和歌所開闔源朝臣家長 在判
家長本新古今和歌集の形態より、一部濁点、句読点等加筆。